Memories 14-1/3 宮古高校を卒業した僕は、ハツおばさんと別れ宮古島から那覇市の港に早朝着いた。



Memories 14-1/3 宮古高校を卒業した僕は、ハツおばさんと別れ宮古島から那覇市の港に早朝着いた。



Memories 14



思い出(14)-1/3



宮古高校を卒業した僕は、ハツおばさんと別れ宮古島から那覇市の港に早朝着いた。

船を降りるとそこに友人が待っていた。

1ヶ月ほど前に琉球大学への受験で那覇に来ていた◯◯君だった。

まったく連絡などしてないし、僕が船で来るなんて誰も知らない筈だが、ちょっとびっくりして、”お、どうしたんだ?”、と聞くと、”お前を待っていたんだ”、と言う。

腑に落ちないが嬉しかったので1時間ほどおしゃべりして、コザ市の我が家に行った。



母と会うのは半年ぶりになる。

アフリカに行くつもりで家出して石垣島までは渡ったのだけど、高校生でパスポートがいるなんてその頃はまったく知らなかったのだ。

昭和38年、1963年当時のアフリカは、まだほとんど植民地か独立まもない動乱の時代だから、渡れなくて幸いだったかもしれない。

家に着くと母は笑顔で何も言わなかった。

友達の由市や、息勇や、神吉、その他みんなと連絡を取り合い毎日遊んでいると、母が台所の屋根を壊してブルーで半透明のプラスチックのトタンに張り替えてくれと言う。

中学生の頃も家の外観を全てペンキで塗装して庭にきれいなお花畑を作れ、と言うので一生懸命作ったら、間もなく家を高値で売って大もうけをしたことがあり、何となくその予感もしたが兎に角やることにした。

友人の神吉にも手伝って貰い、まず暗くて天井の低い台所の屋根をこわした。

そこを棟上げして全面半透明のブルーのプラスチックのトタンを張ると、何とパッっと光り輝く夢の竜宮城が出現したのだった。

木造35坪程の外観も全部淡いブルーのペンキで全面塗装すると、我が家はまるで新築みたいなおしゃれな家に生まれ変わったのだった。



それが嬉しかったのか知らないが、その頃から我が家にはベーコンハムの缶詰や、トマトやトゥーナーの缶詰など、色々と当時としてはちょっと贅沢なものが少しずつ揃うようになって行った。

それで僕は誰もいない午後に1人で家でちょっとお腹がすいたので、ベーコンハムを適当な厚さで2枚切り、フライパンで炒め、トマトを5㎜ぐらいに2枚カットし、キャベツを1枚はがして、玉ネギを5㎜程に2枚カットして、食パンを2枚トースターで焼いて、トゥーナーを全面に塗ったら、マヨネーズ、当時はエゴーのちょっと甘いマヨネーズを塗って、何となくアメリカ人ならこうしそうだな、と思う今でいうサンドウィッチを作った。

ケチャップも使ったんだが、これが当時の僕には生まれて初めて作った料理で、しかも天国の食い物ぐらいに旨かったのだ。

本当に中山誠が考えたまったくのオリジナルサンドウィッチだった。

勿論当時はサンドウィッチと言う言葉さえも知らなかったのにだ。

しばらくは1人密かに楽しんでいたが、ある日宮古島の友人、保栄茂(びん)宏海が訪ねてきた。

それで色々おしゃべりしていて途中、”宏海、お腹すいたか?”、と聞くと、”うん”、と言うので、早速誠特性サンドウィッチを作って一緒に食べた。

一口食べるなり宏海は、”こんな美味しいもの生まれて初めて食べた”、と興奮して言った。

僕は嬉しくなって、”これ俺が考えて、お前以外まだ誰も食べたことないよ”、と言った。

それからしばらくして家族にも作ってあげたら、勿論みんな大喜びだった。

これは全体的に後々も同じようなサンドウィッチを作ったが、キャベツのかわりにレタスになったり、マヨネーズがエゴーからキュウピーや味の素などのマヨネーズになったが、玉ネギとトゥーナーの美味しさは今も忘れられない。



しばらくすると、案の定母が家を移ると言うのだ。

今の家は高値で売れたらしく、今度は安慶田のカマハラの大きな銀河ホテルと言う家だった。

名前と看板は父がつけてあったが、この大きな旅館を大、小2つに分けて分離して、更に間に塀をブロックで作れと母が言うのだ。

手伝う者も1人いると言う。

会ってみると父を尊敬しているヤクザらしい。

父は沖縄傷痍軍人会会長として、3,000人余りを束ねており、このヤクザはそれでちょこちょこ父を訪ねてきて、母に、”マーの加勢をするように”、と命令されたようだ。

それで最初にホテルを2つに分離して、それから間のブロック塀を作るために木材屋からコンクリートを20〜30袋程運ぶんだけど、1袋が25kgか30kg程ある物を1人で2袋まとめてかつぎ、200〜300mしかないとは言え、かなりきつい往復だった。

それ等も無事完成すると、見事に大小2棟のホテルが完成し、小の方はすぐいい値で売れたらしく、母は毎日ルンルンだった。

大きい銀河ホテルには個室が10数室あり、1回には事務兼の両親の部屋があり、2階に僕と妹と弟2人の部屋があった。



しばらくすると母が集金してこいと言うので聞くと、頼まれて貸した相手がヤクザの親分で、何回か返すように求めたのだが取れない、今度はお前が行けと言うのだ。

仕方がないので、高校卒業後ガス屋で働いていた信という友達に、小さいピックアップを持ってきてもらって、一緒にそのヤクザの家に行き、友人には外で待機して貰って、家の中でヤクザとその愛人に金を返してくれと言うと、今はないの一点張りでいつ返すかも言わないので、とうとう外の友達に声をかけ、一緒に当時としては中々豪華なテレビを運ぼうとすると、”何をするか”、と怒鳴るので、”おじさん、いつ返すか分からないから、家にある金目のものは全部持って行く”、と答えると、”お前本気か”、と言うので、”おじさん、手を出したらすぐ警察に言うからな”、と言うと、”分かった、じゃあ明日、金は返す”、と言うので、”明日?これ以上は待たんからな”、と信と帰った。



母にはその旨を伝え、翌日金が戻って来て母はホクホクだった。




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