Memories 14
思い出(14)-3/3
その後も、母の命令で遠い金武(きん)の街まで集金しに行き、300ドルの集金に成功したが、帰りにあまりの大金の成功にごきげんになった僕は、いつも母が往復のバス賃しかくれず、今まで全てタダで使われていたので、少し何ドルか飲んで帰ろうと思い、友達を呼んで飲むことにした。
当銘由市と一緒にごきげんで5ドルぐらい飲んで帰ってポケットを探すけど金がないのだ。
土方の1日の日当が1ドル、吉原の女性の値段も1ドルの時、1ドルでもそこそこ飲めた時代だ。
しょうがないので正直に、”集金は300ドルできたけど、友達と酒を飲んで全部落としてしまった”、と言うと、母にはこっぴどく叱られたが、父は感心して、”俺は生まれて一度も300ドル飲んだことないな、お前昔生まれておれば坂本龍馬みたいな男になれたかも知れないな”、と感心していたのだ。
流石の僕も、うちの父は勉強では天才だけど馬鹿親父だな、と感心したもんだ。
銀河ホテルは、あの頃のコザ市ではシャレたホテルで、毎日、朝、昼、晩を問わず、外人が女連れで出入りしていた。
いわゆるNo.1のパンパンホテルだった。
しかも土方の日当1ドルの時代に、1ドルのホテル賃を喜んで払うのだ。
母は毎日何十ドルの金が入るのでホクホクだった。
それで僕も知らんぷりして母の行動を観察すると、母には財布が2つあり、大きな財布にドルをある程度貯めこんでから銀行に行くこと、その時しか金の勘定はしないことが分かった。
それでいつも仕事をさせられるが、小遣いは1円も貰ったことがないので、6月17日の夜、誕生日に、タンスの下から二つの引き出しの財布から1ドル抜き取り、吉原に女を買いに行った。
19歳になった日に初めて行ったのだ。
吉原を1周すると、”兄にー、あんた学校どこねー”、とあちこちから声がかかるので、その都度、”水産高校だよ”、と答えた。
そしてきれいな20代の女性がいたので、初体験をその人とやることにした。
やさしい人で、いろいろ教えてくれたが、初体験だ。
30分の快感はすごかったものの疲れたので、僕はちょっと休むことにした。
きれいな人は、”あんた本当に初めてねー”、と行ったが、僕は初めてで全てが驚きだった。
そう言う本も読んだことがないのだ。
宮古島の高校で、この前まで彼女が13人いるなんて噂されていたプレイボーイは初だったのだ。
そしてまたやろうと言うと、”だめよ、2回目はもう1ドル貰わないとママにしかられるの”、と言うので、”でもまだ僕は終わってないよ”、と言ったけどやっぱり駄目だった。
1ドルしか持ってなかったし、初日は失敗したのだ。
翌日、頑張ってついに大人になった後で分かったことだが、僕はちょっと珍しい遅漏だったのだ。
8月も入って間も無く、由市も、息勇も、盛一も、友達が名護英語学校にいるので、僕も名護で受験勉強をすると言って家を出た。
このままでは母の使いっ走りになると思ったことによるのだ。
あ、それから遊園地の計画の土地だけど、当時沖縄には不動産屋はなくて、土地の売買はすべて当事者間の話のみなので、当然僕も毎週信の休みを利用して、各地のよさそうな土地の持ち主を探し、値の交渉をした。
与那原で、1坪10セントから20セントで5,000坪から、1万坪ぐらいの土地を見つけ、南風原町で20〜30セントの土地、首里だと1坪25ドルと高額で、それでもやっと1,000坪程度、石川市で、東恩納から西に抜ける山手で5セントから10セント、そして1番気に入った土地が、現在中部病院が建っている場所で、少し高めの坪1ドルだったが、全面道路に面した土地を取りあえず5,000坪買おうと思ったのだ。
それで5,000ドルを使い、ゴーカートの輸入に1,000ドル、プラス運賃で、残りはしばらく予備費と言う計画を、信と話し合っていたのだが、間もなく信がビビって、”俺遊園地やめて大阪に行く”、と言い出して、この計画はパーになった。
18歳から19歳にかけての話だけど、僕は今でも当たったのに、と思っている。
沖縄に遊園地らしきものができたのは、本土復帰後でかれこれ10年後の話で、その頃から不動産屋の取引も始まったのだ。
ま、そんなことで名護に勉強しにと嘘をついて行ったわけだ。