Memories 14-2/3 母はヤキモチを焼いて喧嘩となり、母は父の頭をコカコーラのビンで殴ったのだ。



Memories 14-2/3 母はヤキモチを焼いて喧嘩となり、母は父の頭をコカコーラのビンで殴ったのだ。



Memories 13



思い出(14)-2/3



そう言えば銀河ホテルに引っ越す前に、母に1万ドル貸せと言ったことがある。

そしたら母が、”1万ドルも何するの、ブローカーみたいな子だねー”、と馬鹿にしたように言う。

僕は、”大学は行かない、遊園地を作る”、と言うと、母は、え?、と怪訝な顔をして考え込んだ。

当時としては、今の1千万円でもきかない大金ではある。

僕は、”すぐに元は取れると思うよ”、と言うと、当時沖縄では遊園地はなく、聞いたこともなく、遊びに人が集まるなんて考えられない時代だったが、何故か母が珍しく、”その1万ドルをどう使うの”、と聞くので、”取りあえず遊園地の場所にする土地を買う”、と言うと、”ふーん、じゃあ取りあえず1万ドルね”、と言うので、僕はすぐ信と言う友達に、”俺は遊園地を作るけど、お前一緒にやるか?”、と言うと大喜びだった。

それで一緒にやることにして、彼の暇な日に沖縄中あちこち捜していた。



その頃、父はたまたま春陽おじさんと言う従兄弟と酒を飲んでいて、”マー、お前も飲むか?”、と言うので、僕もウマくもない酒をチビチビ一緒に飲んでいると、父が、”春陽、マーが遊園地を作ると言って土地を探しているけど、お前どう思うか?”、と聞くと、”遊園地”、としばらく考え込んで、”ひょっとしたら大バケするかも知れないな”、と言った。

春陽おじさんは船を数隻持っていて、沖縄ではやり手の実業家だったから、父も”そうか、ひょっとすると当たるか、そうだな、遊園地なんて東京でも後楽園ぐらいしかないしな”、と半ば感心したように言った。

僕は、”後楽園ってなんだ?”、と言うと、父が色々話してくれたので、僕は、”そう、そう言う感じに色々考えてはいるが、スタートはゴーカートというものを1台100ドルと言うから、最初はそれを10台からスタートして、色々増やして行くつもりだ”、と言うと、父も、”これは当たるかも知れないな”、と少し楽しくなったようだった。

何せ自家用車なんて夢のまた夢の時代だったのだ。



そう言う最中、ある日父が酔って遅く帰って来た日があった。

母はヤキモチを焼いて喧嘩となり、母は父の頭をコカコーラのビンで殴ったのだ。

コカコーラのビンは分厚く頑丈だ。

それでボカンとやると痛いなんてもんではない。

父は怒ってすぐに家出をしてしまった。

後にも先にも初めての家出だ。

夜の11時頃僕が友達と遊んで帰ると、母がしょんぼり1人でいた。

”母ちゃんどうした”、と聞くと、”父ちゃんが出て行った”、と言うので色々聞くと、それはいくらなんでもコカコーラのビンはないわと思ったので僕はあきれて寝てしまった。



それから3日間たっても父は帰らない。

傷痍軍人会にもしばらく休養ができて休む電話があり、来てないと言う。

流石に母も気が気でなく、”マー探して来て”、と言うが、僕も、”コカコーラで殴られれば一生帰らないと思うよ、本気であやまる気あるのか?”、と聞くと、”うん”、と言うので探すことにした。

僕は1ヶ所思うところがあった。

僕たち家族とはまったくつき合いのない親戚のおじさんが裏街にいると言う話を、一度何かの折に、父が言ったことを思い出したのだ。

その裏街に行って、こう言う人を探していると話すと、一発で父の居場所は分かった。

でも父は絶対家には帰らない、まだ頭が痛いと頭のこぶをさする。

”あの母ちゃんがしょんぼりして、毎日涙ぐんでるんだよ、そして本気で悪かったってあやまっているんだよ”、と説得すると、”本当にあやまっているんだな?”、と言うので、”うん、今度は流石に本気であやまっているな”、と言うと、帰ることになった。



それで父をつれて帰ったけど、母があやまったかどうかは知らない。



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