Memories 15
思い出(15)
バスに揺られて遠い名護への道を辿っていると、左手に美しい海が広がり右手に山が続く名護の七曲りに出て、ついにヨフケの村から、ヒンプンガジュマルのある東江(アガリエ)の街、つまり名護市に着いた。
今は道も真っすぐになってしまい味もそっけもないが、あの頃は名護の七曲りから名護湾にかけては、それはそれは美しい景色だったのだ。
世の中の発展とか向上進化なんていうものは、どんどんつまらなくすることだと思うな。
名護では英語学校は有名で、各地から生徒が集まっていた。
息勇も由市も盛一もきていたが、本気で勉強していたのは盛一ぐらいで、勿論僕はほとんど1円もないので入学すらしていない。
逆に言えば、子供にはケチな母が、文句も言わず出したのは金を請求しなかったからだろう。
由市は普天間高校出身のワンパク好男(ヨシオ)などと遊んでいたので、僕はもっぱら息勇と遊んだ。
と行っても朝から午後5時頃までは、名護英語学校に通っていたので、僕は午前中はそこいらをブラブラしたり、泳ぎに行ったりしていた。
泳ぎには毎日行ったが、ある日沖へ沖へと名護湾を泳ぎ、夕日がどんどん落ちて暗くなったので、もう戻るかと振り返ると何も見えないのだ。
少しは波もある日だったが、それ程高くはないのに、灯ひとつ見えないのだ。
2時間か、3時間か何時間泳ぎ続けたのかも分からないが、それからは帰るのに必死に頑張った。
泳いでも泳いでも陸も灯も見えない。
泳いでいると何かが足にさわった。
ぎくっとしたが、泳いでいると又さわった。
今でもあれは何だっただろうと思うが、あの時は鮫のことを考えたり、くらい大洋の真ん中だ。
色々な海の怪物を想像して、いやな気持ちになっていた。
余りに疲れたので、しばらく背泳ぎをしていたが、今度は波と風も出てきて顔にビチャビチャしぶきが当たるので苦しい。
もうもたないなと覚悟を決めた頃にやっと街の灯りがチラチラと光っていた。
それから1時間泳いだか、2時間泳いだか分からないけど、やっと名護湾のなつかしい浜に着いたが立てないので、30分程横になり寝そべって幸せに空をながめていた。
戻ると息勇たちがあせって僕を探していたらしく、”マーちゃんどこ行ってたんだよ”、と言うので、いきさつを話すと、”本当かよ、すごいな、よかったなー”、と何度も言い喜んだのだった。
ある晩、その日はカツウ岳で山の中腹まで登り、シークワーサー(みかん)をボストンバックのいっぱい取って来たので、泡盛を割って飲んでいる時だった。
変にまじめな一面もあり、少し僕に対抗心を見せることもある盛一が、意味もないのに突然シークワーサーを2つ割りに切っていた柄のない果物ナイフを示して、”マーちゃんはこのナイフを握って、ドンと壁をつくことが出来るか”、と言うのだ。
刃しかないナイフを握って壁をつけば、手のひらが切れるわけで、こんなことをする意味はない。
それで、”じゃあ俺が出来たら、お前もやるか?”、と言うと、”あー勿論さ、でも出来るわけないじゃないか”、と盛市が言うので、僕はそのこわれた果物ナイフを握ると、ドンと思いっきり壁をついた。
勿論手のひらは切れたが、僕は手ぬぐいを手のひらに巻き、”さあ、今度はお前の番だ”、とナイフをつき出したが、盛一は青くなって下を向いた。
その日はもう、この話はやめにして、他の愉快な話で夜もふけた。
問題は翌朝だ。
アルバイトの土方に行く初日だ。
何せ無一文状態で来ているし、息勇の金で2人が暮らすには無理があるので、稼がないといけないのだ。
それで翌日からは手のひらに手ぬぐいを巻いて土方をやったが、1日1ドルの日当だ。
それで充分な時代だった。
たまに名護英語学校に行くと、勝連の富姉さんもいたのにはびっくりした。
何でもユウちゃん兄さんが銀行の支店長で来ているので、自分は暇だから英語の勉強をすることにしたと言うのだ。
それで僕も時々遊びに行くことにした。
英語学校の生徒たちとは友達になったが、その中で1人名前は忘れちゃったがすごい奴がいた。
バッファローみたいな奴で、20歳ぐらいだが、下宿に空手の巻きわらを作ってあり、彼が突くと僕の2倍ぐらいそるのだ。
2倍そるのは力はその数倍だ。
こんな破壊力は後にも先にも今のテレビの中でも見たことがない。
鉄ぼうも見たことがあるが、大車輪を軽々とやるのだ。
本当に軽々と平気でやるのだ。
宮古島で遊び人を何名も脅していた僕だが、彼にはまったく恐れ入ったね。
その後今日まで一度も噂を聞いたこともないが、世の中不思議な人がいるもんだ。
名護ではアルバイトの1日1ドルの土方と、名護湾での水泳と、夜はシークワーサー入り泡盛の楽しい日だった。
ある日、息勇が自転車を借りて今帰仁の高校に美人がいるらしいから見にいこうと言う。
午前中に出発したが、北部は山だらけで坂道だらけで、当時はまだ舗装されていないガタガタ道で、遠い遠い道だった。
やっとの思いで北山高校まで女子学生の下校を待っていると、やっとぞろぞろ帰るが、何百名も帰ったが残念ながら美人には1人も出会えなかった。
ガッカリして帰ろうと戻りしなに、近くの小さな雑貨屋で腹が空いたのでパンとコーラを買いに入ると、そこにそれはきれいな20歳前後の僕たちと年の近い美女がいたのだ。
ビックリ仰天ウチョーテンでパンを買い、コーラを飲んで大満足したので、帰り道の坂のデコボコ道をころげ落ちるように走っていると、道をふみ外し崖から落ちた。
あちこち痛かったが、まだ美人に会った喜びの方が勝っていたのか、無事にヘトヘトになって帰ってきたのは夜だった。
あの美人は今帰仁で幸せに暮らしたんだろうか。
今の僕は宮古島で幸せに暮らしているが、彼女の幸せを祈る。
毎日土方と水泳の練習の日で楽しく過ごし、初恋の正岡明美も、小学校の頃過ごした名護の街とも9月でお別れして宮古島に渡ったのにはわけがある。
8月の半ばに名護に行くと言って出かけて、9月の末まで音信不通で心配した父が探しに来るらしいとの噂を聞き、急遽宮古島に渡ることにしたのだ。
名護での黒ん坊の日々は、勉強とはかけ離れており、宮古島にはハツおばさんと言う強い味方がいるし、アルバイトも不必要な楽しい日々が又始まるのが目に見えて分かっていたからだ。
それで息勇、由市、盛一、他の全ての人々と別れて、又宮古島に渡ったのだ。