Memories 16-1/4 参考書を買うと言ってハツおばさんから貰った金でヌンチャクを買い…



Memories 16-1/4 参考書を買うと言ってハツおばさんから貰った金でヌンチャクを買い…



Memories 16



思い出(16)-1/4



池間島と伊良部島の間を通って、船が宮古島の平良市に着いたのは早朝まだ薄暗い時間だったが、何だかんだするうちに船を下りてハツおばさんの家に着くと、ハツおばさんも寛おじさんもお手伝いのマキちゃん姉さんも、もう朝ごはんの準備中だった。

”あれ、まーちゃん今着いたの?”、言って一緒に朝御飯を食べた。

勝連の勇おじさんの沖縄ツーリストか国際旅行社かは忘れたが、そこにはちょっとまずいと思ったので、別に部屋を探してと頼んだ。

つまり、名護で朝から晩まで真っ黒になって遊んでいたのは勝連の長男にあたるユーちゃん兄さんだったので、僕の話から受験勉強は多分嘘じゃないか、マーのことだからなと言う話になり、ハツおばさんは兎に角、寛おじさんの中学の校長の立場もないかも知れない、と僕なりに考えたんだ。

要するに勝連じゃあ遊べないってことだ。

それでハツおばさんの従兄弟のシンチンヤのおじさんの家に間借りすることにした。

僕の部屋は、道路に面している下里通りから1本入ったところにあり、そこにとりあえず受験生だから机を持ち込んだ。

あとは誰も監視する者もないので、勉強する要素は皆無しの部屋で、ハツおばさんから色々買い物が必要だと言って小遣いを貰ったので、それでエキスパンダーと鉄アレイを買い体を鍛えた。



しばらくすると空手の達人の道場があることを知り行ってみると、本業は魚屋で副業で空手道場を建てて道場をやっている人だが、本当はその逆で、道場で食えない時代だったのだ。

早速入門した。

ハツおばさんには受験勉強を指導する人がいると言って、月何ドルか忘れたがせいぜい2ドルぐらいの月謝を貰った。

入ってみると幸か不幸か僕にほぼかかりっきりで指導するのだ。

先生が突いてくるのはもおすごい音と風で、ビュッと腹すれすれに道着に当たる突きだが、それを僕は必死にありったけの力で払うが、それはまるで金棒を払うように痛い。

これを道場の隅から隅まで動きながらやると、今度は反対に僕の突く番だ。

思い切り突くが、パンと金棒で払われたように正面から90°くらい腕が払われるが、それを道場の隅から隅まで続けて今日は1クールで終わる。

腕は赤くふくれてくるし、ジンジン痛むが、その後巻きわらで突きとけりを30分程くり返し、突き、ける訓練だ。

わずか初日の翌朝は痛くて痛くて動きたくないくらいだけど、夜の練習の時間になり、数名の練習生との訓練が終わると、”誠、お前は残れ”、と言われ、また先生と1対1の訓練が始まるのだ。

”先生、腕も痛いし、足も上がらんよ”、と言うと、”俺は14歳で沖縄1の先生の道場に住み込みで入ったが、お前の数倍毎日25歳までやった、最初の頃は腕は充血して真っ黒になっていたな”、と言うのだ。

それで今でも実力は沖縄1だと自信があると言う。

僕は死に物狂いにならざるを得なかった。



参考書を買うと言ってハツおばさんから貰った金でヌンチャクを買い、家ではヌンチャクの練習に数時間毎日やっていると、隣に下宿していた警官が、”お前かなり強そうだな、警官にならないか”、と言ったが、僕はコザ市で散々やくざと警官のせめぎあいと見て育った人間で、当時の警官はやくざと50歩100歩だったのでお断りすると、残念そうな顔をしたのだった。



友人の東健司君が高校を出てすぐに警官になり、彼は僕が高校1年の頃に柔道部の部長で、3年生の2段の人にも投げられていなかった頃に、その素晴らしいスピードで僕を投げ飛ばしていた男だったが、やくざやチンピラを1人残らず会えばなんくせをつけて殴り投げ飛ばしていたが、その後免職となり数年後にやくざにやられて死んだ。

そう言う時代だったのだ。

空手の先生はそれは良い人で練習は厳しかったが無学で、しばらくするとある本を持って来て僕に、”誠、この本を是非読みたいけど、所々分からない字があるから、お前毎日30分位、練習の後で教えてくれんか?”、と言うのでやることにした。

又、時々2人で相撲をとった。

先生は相撲はやったことがないと言うので、僕はチャンスだと思った。

僕もそんなにやったわけでもないが、相撲は強かった。

それで畳2枚から出たら負けと言うルールで始めたが、ヌシと言う技、大外刈りみたいな技で、腰に相手を乗せて投げるのだけど、いつも最後は跳ね飛ばされるのだ。

いつもいつも途中までは勝っているつもりが跳ね飛ばされる。

すごい足腰のバネの力が半端じゃなかった。



遊ぶ相手はそういない頃だったが、毎日空手とヌンチャクの日で、時々1人でパイナガマに行っていた。

パイナガマも小さい頃とはかなり変わって、もう楽園とは言える程じゃなかったが、今のパイナガマよりはましだった。

熱帯魚たちは激減していたが、かろうじて浜昼顔は3分の1程は残っていたのだ。

そこで泳いだり、寝そべって空を見上げているのがとても嬉しかったのだ。



まだまだアフリカへの夢、最後の楽園や、黒いオルフェのいるブラジルのことを考えたり、外人部隊の破滅的な恋などは、本当の恋など知らない僕には、心をしめつけられる甘ずっぱさで蘇るのだった。



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