⑥ひろ姉さんから連絡が入り、"まーちゃん、ハツおばさんが危篤なの、すぐ来て"、と言うのだ。






Memories 54



Memories (54) -1/1



さて、敬子姉さんには話してないわけだけど、邦夫兄さんとは意外と縁はあるんだよ。

でも大好きな敬子姉さん、ひょっとしたら正岡明美と小学3年に気になる別れ、つまり明美の転校がなければ、その頃1番好きだった敬子姉さんが初恋かもしれないんだ。



時々、僕の初恋は誰かなぁと考えると、なかなか判断がつかないが、最も初恋って何も起こってないから良い訳で、嫌な別れ方でもあったなら一生辛いだろうね。

どっちにしろ、親友の鉄彦のお姉さんの敬子姉さんで良かったし、邦夫兄さんの妻になったと聞いた時はびっくりしたよ。



邦夫兄さんは、僕の同級生一の美人で一番優しい栄子の兄さんで、これまた僕にはいい思い出のいい兄さんでよかった。

邦夫さんとは、ひとつも悪い思い出なんかないんだけど、残念ながら邦夫兄さんがせっかく紹介しても、そう、良かれと思ってもその連中は自分の都合で動くから厄介だね。

結局うまく利用されるってのも、その時はそれだけの力しかなかったってことだから、恨むなら自分を恨むしかないかもな。

どっちにしろ僕はロマンチストなので、こせこせしたのが好きでないというか、考えるのができないので、恨むのも無駄なことだと割り切ってしまうけどね。



そういうわけでその後は新しい事務所を作ったり、そこになぜかチンピラたちに慕われてみたり、新商売をちょっとしてみたり、どれもうまくいかず結局ずっと直美が稼いで僕は一緒に毎晩遊ぶだけの生活だった。

1番長く付き合ったのが稲嶺さんで、本職は鍼灸だが、北谷町で土地をかなり持っていたのを処分してその金で僕と直美と3人でよく飲み歩いた人だった。

稲嶺さんとの話も割と小説にはなるだろうが、それはいつか話そう。





さて、僕が一度だけ金を稼ごうと思ったのは、唯一この時だったかもしれない。

それで内地に出稼ぎに行ったのだ。

ある営業会社に入り、1ヵ月間僕は外交やったのだ。

それが11月下旬から12月にかけての話で、出勤して昼から外交で営業に出かけるけど、群馬あたりをとぼとぼ歩くんだけど、一軒一軒が離れていてしかも寒いんだ。

コートがない薄着とスーツでは、本当に寒かった



ところがしょっちゅう別室で殴られる音らしい物音がするし、ある日突然来なくなる社員がいるのだ。

しかもだんだんわかってくると、この会社がやっている営業は、実際の数倍ふっかけた金額で契約をまとめて、家の主にエクステリアを中心に家の部材やインテリアまでを販売するわけだが、僕の仕事はアポイントをとって話のきっかけだけ作るだけの仕事なので、最初は仕事の本当の中身など一切わからないのだ。



そして約1ヵ月近く経った頃、たまたま休憩で入った喫茶店でインテリアの本があり、ちょっと関連あるなと読んでいると、いろいろな資料が出ており、どうもうちの会社はその数倍稼いでいるなと分かった。

それで成績の悪い奴がどつかれて、とんずらしているのかとわかってきた。



しかも僕は見込みがあると抜擢されて、翌月つまり1月からは静岡支店を副社長と一緒に作りに行くと言うのだ。

副社長はうれしそうに、"中山、お前もすぐに月収100万円を突破するからな"、と言うのだ。

僕は荷物をまとめて、"皆さん都合により退社いたします"、とさっさと辞めて、会社のみんなも、"えー"、と言う顔をしているし、帰ったら帰ったで直美も、"えー"、と驚くし、それはそうだ、"稼いでくるからな"、と言った奴が1ヵ月で帰ってきたんだからな。


もっとも詐欺会社じゃなくても、真冬の群馬なんて二度と行くもんかと思うね。

最初から静岡なら、僕も持ったかもしれないし、それなら今頃立派な詐欺師だったかもよ。

それはないか。





わずか1ヵ月の出稼ぎ生活で、1度も給料ももらわず帰ってきたが、1つ良かったのは帰って2日後位、ひろ姉さんから連絡が入り、"まーちゃん、ハツおばさんが危篤なの、すぐ来て"、と言うのだ。

浦添中央病院に駆けつけると、酸素ボンベに繋がれたハツおばさんが、静かに寝ていた。

数日前から僕を探していたらしい。

意識はもうないし、いくら呼んでももう反応はなく、今日にでも死んでしまう状態らしい。



それで僕も、"ハツおばさん、俺だよ、まーちゃんだよ"、と言うと、"うん"、と言うのだ。

みんなびっくりして、医者もびっくりして、"もう一回呼びかけてみて"、と言うので、"ハツおばさん、まーちゃんだよ"、と言うと、"うん"、と答える。



それでひろ姉さんも、他の家族も交代で呼びかけるが、全く反応しないので、また僕がやると、"うん"、と答えるのだ。

その日はしばらく僕が呼びかけて、ずっと、"うん、うん"、と答えてくれたが、翌日亡くなったのだった。

まるで、僕が来るのを待っていたかのようだった。



僕が物心ついて、記憶のスタートはハツおばさんだったし、僕はハツおばさんを母と思って育った。

そして皆、"母ちゃん"、と呼ぶのに、なぜ僕は、"ハツおばさん"、と呼ぶのだろうと、いつも不思議だったのだ。

だから、1枚だけ残っている5歳の頃の家族との記念写真も訳が分からず、キョトンと座って、何故この人たちと写真を撮っているのだろうと、不審そうな顔の僕がいる。

残念なのは、僕にはハツおばさんとの写真は、1枚もないのだ。

でもハツおばさんとの思い出は、たくさん有り余るほどに僕の中にある。



逆に言えば、僕は幸せ者だ。

母との思い出も人の2倍、つまり産みの親と、育ての親の2人の思い出があるし、友達も同窓会も人の2倍だ。

コザ高の卒業写真にも、宮古高校の卒業写真にも写っていて、同窓会もダブルだ。

挙句の果ては結婚も2回で、考えたら全部ダブルだ。



そういうわけで、ハツおばさんは荼毘(だび)にふされ、みんなが、"まーちゃん、あんたが墓までは持ちなさい"、と言うので、僕が最後はハツおばさんを持って見送ることができたのだった。

沖縄でも寒い年末のことだった。





その頃、相前後して、後村くんと言う頭の良い北海道の若者との仲の良い付き合いもあったし、彼とはよく一緒に七福神と言う大きな鳥居の居酒屋チェーンで、僕と直美がお世話になった店の社長とも、3人でよく飲んだもんだ。

5時ジャストに、まず本部の社長室の高級ウイスキーを飲むのが、その社長のルーティーン、習慣と言うわけで、僕と後村くんは、いつもその社長を4時半ごろ訪ねておしゃべりするのだ。

するとその社長は大喜びで、まもなく僕たち3人は酒盛りが始まり、9時ごろには必ず七福神巡りが始まるわけだ。

僕は、後村くんとは七福神の社長を尋ねたり、いろいろな社長を訪ねたが、頭の良い彼のヨイショは一流で、今も僕はつい笑みが出ているのだ。



だが数年後、彼は東京で亡くなり、新婚一ヶ月位の奥さんからの電話で、彼がいつも僕のことを話していた、そしていつか僕のことを天才だと言っていたと言うのだ。

うーん、と思ったが、自分はまだ新婚一ヶ月位で、後村からは中山さんの話ししか聞かないので、できたら焼香に来てくれないか、と言うので東京まで行き、小さなアパートで一間に台所だけの部屋に、小さな手作りの仏壇を作り花が添えられていた。



写真ひとつない仏壇は寂しかったが、なるほど呼ぶ人もないような葬式だったんだなというのがよくわかる、何せ二人だけで籍を入れてたったの一ヶ月だ。

聞くと、東京駅の電話ボックスの中で死んでいたらしい。

心臓発作だったらしい。



それでもあの弁舌爽やかな、明るく誰にも物怖じしない後村にしては、悲しすぎる最後だった。

後村には、僕と同年位のいい兄さんがいて、北海道のホタテの貝柱の干物の絶品を送ってもらったこともあり、それはそれは絶品の美味しさだったことなど、たくさんの思い出もある。

それにしても、あの新婚一ヶ月の奥さんとは終電車の寸前まで話し込み、頑張るように励ましたことが、せめてものはなむけではあったが、幸せになっていたらうれしいな。





後は屋宜原の伊佐好男と、エンターと3人で飲みまくったが、好男はいつも10万円以上持っていた。

なんでも国道の立ち退き料が一億縁ぐらい入ったとかで、会社にも数千万円貸してあるとか言ってたな。

わんぱく坊主だが、僕にははったりや嘘はつかないと思うからね。



思い出でいろいろなことを書いているが、もう沖縄本島、つまり那覇は僕の住むとこじゃないなと思ったので、直美に、”俺はしばらく宮古島に行く”、と言うと、”いつまで”、と聞くので、”1年か2年かわからん”、と言うと、”そんなお金ないよ”、と言うので、”お金は作るからいいよ”、と言ったら、”どんなにして作るのよ”、と言うので、”まぁ、何とかなるさ”、と言ったら、”馬鹿じゃないの”、とまるで本気にしないのだ。

その頃借りられそうなのは、伊藤隆博くんなら1万円位、と仲はいいけど、こいつは貧乏だ、次に〇〇なら10万円位だなぁ、待てよ昔200万円余り貸してとっていない宮沢あきらは金は無いけど麻雀はうまいから、あいつに麻雀屋をさせると言えば、あいつのお母さん名義のアパートが宮古にあるから、そのアパートの部屋に空きがあれば使えるな、と考え、あきらに連絡を取った。



すると、あきらはすぐに乗って、しかも2部屋まるまる2階が空いていると言うのだ。

それで或る友人から50万円借りて、中古だが綺麗な麻雀台を3台、30万円で買って宮古に送り、直美にお別れして宮古に来たわけだ。



アパート2室のうち、1室の中をぶち壊し麻雀屋に改造し、看板を、”マージャン、ポン”、とつけてすぐに営業を開始した。

宮古第一号の麻雀屋だったからすぐに客が入り、とりあえず営業は順調で、あきらは主としてがんばり、僕もとりあえず食うには困らなくなった。

これで一応宮古島で何をするかはゆっくり考えられるな、としばらくはぶらぶらすることにしたのだ。



久しぶりの宮古島は、僕には1番懐かしい故郷で1番のびのびできる所だったのだ。

宮古島での迎えを下地光春に電話した時は、さすがにパニくっていた。

それは僕がしばらく宮古に住む、と言ったので、これは僕に集られるなと思ったようで、”中山さん宮古に住んでもロクな事はないから来ないほうがいいですよ”、と言うので、”俺の事はお前が心配しないでいいよ、とにかく明日〇〇時に空港に迎えに来いよ”、と電話を切ったのだった。

翌日ちゃんと光春は空港で待っていたので、”光春、早速転入届を出しに行こう”、と転入届を出しに行き、宮古島の人間になったわけだ。



久しぶりに帰ってきた宮古島。

僕は44歳になっていたから、あの倒産で全てを失ってから丁度10年経っていた。

僕がサンエーを、売り上げ沖縄一にしてから12年目になるが、その頃の沖縄一がどの程度かを説明しよう。

皆さんは、”えっ、そんなもんか”、と驚くかもしれないな。



まず三越デパートが年商30億円余りで、琉貿、つまりリウボウが40億円余り、山形屋デパートが50億円余りで、ダイナハが65億円余りで、サンエーが70億円余りで沖縄一となったのだ。

もう山形屋も三越も、ダイナハ、つまりダイエーもない。



今あるのはサンエーとリウボウは生き残り、新興勢力としてイオンマックスグループと、かねひでグループがある。

そしてサンエーは1,300億円ほどかな、相変わらず沖縄一で、2がイオンマックスバリュー店、3位がかねひでだ。



そして今サンエーは、宮古島に新しい店舗を出そうと準備している。

なかなかすばらしい計画のようで、サンエー発祥の地である創業者の折田喜作の生まれ育った所であり、現会長の折田ジョウジと社長の上地哲誠も宮古島の出身であるので、どうしても故郷に恩返しがしたいのだろう。



それとも圧倒的な差をつけておきたいのか、確かにもし巨大なショッピングタウンが出来上がれば空港の東へと、流れは変わるかもしれない。

だが僕はジョウジと哲誠に言っておきたい。



これまで一言も何も言わなかったのだから、よく考えて欲しいけど、空港の東へなど流れを変えないでくれ。

それは全く街の為にもならないし、サンエーの為にもならないだろう。

つまり巨大なショッピングタウンは逆に繁盛しても、数年先には廃れると思うのだ。

観光客も地元の客もしばらくは空港の東に流れても、結局最後は街に戻ってくると思う。

しかしかなり町はダメージを受けるし、潰れる店もあると思う。



でもダメージを受けるのは、サンエーも一緒だ。

最初は大サンエーからすれば微々たるもんだが、それが宮古島から始まったとすれば、全く笑い事じゃ済まない。

特に哲誠には言っておくが、今はサンエーの弱いところを丁寧に直す時期に差し掛かっているのじゃないかな。

僕が思うには、どのような巨大チェーン店もそろそろ賞味期限が来る頃だと思うのだ。

すべての巨大チェーンが新店舗を出しながらも不振店舗をつぶしているだろう。

もうそろそろそれに加速度がつくのじゃないかな。



何もサンエーだけの話じゃない。

日本全国での話で、真剣にそれをやらないとどんな巨大チェーンでも持たないだろう。

だからマクドナルドもケンタッキーフライドチキンも、必死に新商品には命がけになるのだ。

世界一のシアーズローバックの噂も今では聞こえてこない。



今聞こえてくるのは、ネット関連のビジネスばかりだ。

10代、20代、30代の若者には全く普通のことだが、ネット関連の話なんて20年前にはほとんどなかったのだ。

30年前なんてスマホを持っている人間なんて1人もいなかったな。

今は幼い子供でもスマホを使える時代に突入しているのだ。



このように世の中が激変しているのに、ジョウジも哲誠もそろそろ経営の内容から変えていかないと、そろそろもたないと思うよ。

まず経営そのもの、つまり会社も社長も総入れ替えの時期だ。

まぁ、これが僕からの初めてで最後のアドバイスだ。

もともと全く興味がないが、一応縁はあった人間だから、念のため一応言っておくのだ。





世の中なんでも変わるのだ。

沖縄も順調に大きく育ったが、今がピークじゃないかな。

今日は僕が宮古島に戻ったことを書いたのだが、まず最初に今後の宮古島についても一言注意を向けておくことにしたのだ。

折田喜作が死んで18年位かな。

妻の澄は94歳位かね。

今は養老院みたいなところで、悠々自適に暮らしてくれてよかったな。



節ちゃんも次男坊では苦労していると思うけど、くじけず頑張ってくれ。

公仁はまだ独身かな。

できたら良い人を見つけて結婚してくれよ。

裕子には毎日会っているよ。

壁に裕子の結婚式の写真が大きく貼ってあるのだ。

5歳のときに別れて以来会ってはいないけど、そんな気がしないのもこの写真のおかげだな。

本当は、公仁の大人の写真も欲しいけどね。



そう、世の中も人もどんどん変わっていくのだ。

宮古島と別れたつもりが34歳の時で、また戻ってきたのが43歳だ。

そして今は73歳で現在についてもあれこれ言っているわけだが、まぁ、僕の思い出話だからしょうがないな。

これからも、もうしばらく思い出、メモリーに付き合ってもらうが、退屈な部分は飛ばして読んで欲しい。



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