俺は日記のタイトルを想像の世界とつけてあるが、そのほとんどは夢の世界じゃなくて、現実に起こったことだ。
だが、たまに夢の世界のことを言っているのかなと思う人もいるようだ。
ま、それとはちょっと違うが、この日記をブログにあげている加持さんも勉強になると言ってくれたし、それなりに一応、いくらかは為になっているわけだ。
ま、基本的には、俺はいつか俺の子供たちが読んでくれたらいいなと思って書いているわけで、次男坊の典久とは2度会ったことはあるが、長男の公仁とは8歳、長女の裕子とは5歳に分かれたっきり会ったことはないが、裕子はスティーブとニューヨークで結婚した時に、お父さん、この度結婚することになりましたと、勲兄さん、公子姉さんを通じて報告があったし、今も俺の部屋の目の前に、孫のシキと一緒に微笑んで写ってる写真があるが、公仁はずっと東京にいるみたいだけど、どうやら俺のせいで離婚して一家離散してしまったと思っているらしく、俺を恨んでいるみたいで、10何年か前に節子に電話した時に、たまたま電話に出たのが公仁で、俺は何十年ぶりに公仁と通じたと嬉しかったが、公仁は逆に怒って、二度と電話するなとすぐに電話を切ったわけだ。
折角、節子からもらった電話番号だが、俺はそれ以来電話した事は無い。
兎に角、人の世は住みづらいもんだと夏目漱石も言っているが、本当にそうだなーと思ったものだ。
ちなみに夏目漱石は、熊本で英語の先生をしていたらしく、草枕も坊ちゃんも、その頃の作品のようだ。
熊本のニコニコ堂に、俺は社員を5〜6名を3ヶ月余り預かってもらって、食品の販売についての教育を特訓してもらっていて、その3ヶ月余りも、毎週土曜日から日曜日にかけて1泊2日で熊本に通ったもんだ。
ニコニコ堂の絶好調の頃で、社長と専務は日本生まれの韓国人だったが良い人だったし、常務は銀行から引き抜いた人で、ものすごい優秀でいい人だったし、この人が俺とは一番仲が良かったわけで、2人で3泊4日の研修旅行で新潟に行ったけれど、結局、数年後にニコニコ堂は潰れてしまったわけだ。
あの時の特訓のおかげで、サンエーの食品部は大躍進出来たわけで、もう今じゃ知っている者はいないわけだけどな。
あの時の常務の名前を思い出せないけど、確か林常務と言ったような気もするが定かではない。
全盛を誇ったニコニコ堂もダイエーも潰れてしまい、30年ぐらいは持つだろうと思ったサンエーは今が最盛期で、兎角世の移ろいは分からないものだ。
ま、俺はレイチェルの春のおかげで、特に難儀もせず、ま、失敗は数多く繰り返したが、いつもケラケラと立ち直ったし、難儀するのは直美と美喜子ちゃんってわけだ。
ま、俺にとっては、兎角この世は楽しいものだけどな。
今日は雨模様の日で、テラスもぐっしょり濡れていて、庭には水溜まりがいくつも出来ている。
そろそろお隣さんとの裁判も始まるが、ま、俺は筋はこっちにあり、勝つつもりだが、ま、半身不随で弁護士に任せっきりだから、弁護士次第でもある。
万一負けても、すぐに引き下がるつもりはサラサラないがね。
ま、兎角この世は厄介ではある。
好事魔多しで、10数年ぶりのトラブルってわけだ。
頑張るぞ!
山路を登りながら、こう考えた。
智に働けば角が立つ、情に棹をさせば流される。
意地を通せば窮屈だ。
とかくに人の世は住みにくい。
うーん、俺も住みにくいとは一応思うが、この住みにくい世の中を、俺はケラケラ笑って生き続けているが、好事魔多し。
ま、人を羨み、人の物を欲しがる奴は無茶苦茶に多いわけで、半身不随の俺にさえ、ちょっかいを出す奴もいるわけだ。
兎角、人の世は住みにくいものではあるな。
じゃあな。
2024年4月6日
人生波乱万丈!73歳脳出血後遺症と共に歩む中山誠氏の思い出話が面白い。
中山誠氏の思い出話しが面白い。本当に、相当面白いのだ。これだけの波乱万丈な人生を送ることができる人が、いったいどれだけいるのだろうか?そしてこの物語(思い出)には、戦後沖縄の歩んで来た歴史の中で起こる様々な出来事ともとても関連が深い。現代の沖縄史といっても過言ではないのか…