Memories 5-2/
思い出(5)-2/5
諸見小学校では、相撲の多クラスとの試合もあり、多クラスは5人ぐらい残して勝っており、僕のクラスは僕と上原義輝と言うノッポの子の2人だけになった。
でも僕は5人全員を投げ飛ばして、僕のクラスの勝ちとなった。
するとノッポの義輝は、無茶苦茶喜んで、”マーちゃんありがとう”と何度も言うんだ。
そう、ノッポの義輝は余り強くなかったのだ。
また、図画コンクールがあり、沖縄タイムズか、琉球新報の主催だったが、僕は最優秀賞となり、そのおかげで僕は、担任の浦崎きみ子先生と、表彰式にも那覇市に招かれ、大きな立派な表彰状や商品を貰った。
20歳を過ぎた頃、諸見小学校の校長室に行ったことがあるが、その時もその絵は飾られていた。
それから助け合い作文コンクールと言うのが、何故か米軍の主催で行われ、またまた僕はトップではなかったが、優秀賞を貰い、那覇市の琉球親善センターで米軍のえらい人から表彰され、トラックが商品を山積みして、諸見小学校まで送ってくれた。
翌日の朝礼で、そのトラックいっぱいの賞品は、指揮台の横に飾られ、僕は校長先生に配られた。
種を明かせば、その”助け合い”は、平一小学校の6年生の1学期に、新校舎のガラス10数枚を多クラスとの石合戦で割り、先生に怒られ弁償することになり、みんなで助け合って一ヶ月間あきビンを集め、菊の露と言う泡盛屋に売って弁償した話を作文にしたら、何故かアメリカ人には受けたわけだ。
また、先の図画の最優秀賞にもオチがあり、木の緑が輝いている様や、赤瓦の陽に当たって輝いている部分と、影の部分をうまく描き分けたのがよかったわけだが、僕は本当は、絵のデッサンでは子供としてはとても優秀だったが、色の使い方は下手だったのだ。
だから特に絵が好きでもなく、たまたま、保栄茂(びん)宏海と言う同級生が、デッサンは普通並だが、色使いが独特で、僕はふ〜んと感心していたのを、うまく活用した色使いと、もともとうまかったデッサンが、有効に活かされた絵に、たまたまなった、と言うのが真相で、その後あまり絵を書いたことはない。