Memories 5-5/5 宮古島を馬鹿にされたような気がして、”飛べるさ”、と言ってしまったから、もう後にひけない。


Memories 5-5/5 宮古島を馬鹿にされたような気がして、”飛べるさ”、と言ってしまったから、もう後にひけない。

Memories 5-5/5



思い出(5)-5/5



山内には、その他に隣のクラスの正雄と言う笑顔のやさしい奴とも友達になったし、ひろしと言う気の合う先輩もいたし、たくさんの思い出がある。



山内には二度目以降、ずっとジャングルみたいな山の中の谷底みたいな所などを通ると、比較的距離が近く、往復ともすべてその山の中を通ったが、帰りはジャングルみたいな谷底で、ハブもいるだろうし、恐かったが、大声で、”われは海の子”、などと歌いながら、真っ暗な道を一人行くのだった。



今思えば、夜あんなとこを歩いて通う奴なんていなかったんじゃないかな。



だってあの頃は、懐中電灯なんてなかったし、街灯もなかった頃だから、神吉の家を出たら、もう真っ暗で誰も歩いていなかった。



でも、怖いよりも遊びたくてしょうがなかったんだ。



やっと諸見に着いた頃に、親川正治と言う同じクラスで一学期の級長をしていた子の、小さな可愛らしい家があって、一度遊びに行ったら、きれいなお母さんがいて、中々頭の良さそうな人だった。



そして三学期に僕は、浦崎きみ子先生に、校舎の外壁に、世界地図を書くことを申し出た。

僕は二度も全校生徒の前で、表彰されており、先生は大喜びで、校長先生に話、何色もペンキを買ってくれた。



僕は親川正治と一緒に描き始めたが、それは宮古島で花城栄長のおじさんが、映画館の上壁にいつもかかげていた映画の看板の絵を、ポスターに小さな1cmぐらいの線をたて横に引き、大きく看板に50cmぐらいの幅の線を、たて横に引いて拡大した絵に、色を塗って仕上げるのを見たことを真似して書いたのだった。



学校の放課後に半日で仕上げたが、それは我ながら見事で一応、正治との合作であった。



最後に見たのは20代の半ば頃で、少しハゲかかっていたが、教室の外壁に何10年もあったのだから、諸見小学校出身者は、かなりの人が覚えていると思う。



さて、小学6年生の二学期にコザの街に来たわけで、怖い思いも初めてした。



それは、ある晩外で、家に向かって歩いていた時だった。



前から大きな黒人が、二人大きな声で話し、笑いながらすれ違いざまに、大きく僕になぐりかかった。

ボクシングで言うフックだったが、僕はすぐに飛びのいた。

顔のすれすれに大きな拳が、ぶんとばかりかすめ去ったが、黒人は何か叫んで笑いながら通り過ぎたが、僕は必死にかけ出して逃げた。

多分、”オウ、すばしこいガキだ”、とでも言ったのではないかと思うが、当時のアメリカではすごい差別を受けていた黒人たちだ。

南の島の子なんかの一人や二人ぶっ殺しても、蟻をつぶしたぐらいしか感じなかったのではないかな。

それまで、中山テーラーで何度も黒人は見ていたが、一人も名前を書ける者はいなかった。

すべて名前を聞いて、父が書いて教え、それの刺繍をすべてんの背広やコートなどに入れて、ものすごく黒人兵に喜ばれていた。

父が黒人と英語でぺらぺらしゃべるのが珍しく、”父ちゃん、何で英語が分かるんだ”、と聞くと、”学校で習ったからさ”、と答えた。



昔、まだアメリカともめる前の日本では、英語は必須科目だったらしく、ずっと特待生で、ものすごい秀才だった父の英語は、しゃべるのもぺらぺらで、何でもかけたから、黒人からするととんでもない偉い人に見えたようだ。

こうして中山テーラーは大繁盛だったが、僕はしばらくは黒人に用心していた。

勿論、なんとなく父や母には話さない方がいいと思い、話してない。



また、二階建てのコンクリートの校舎があり、二階建てなんて当時の宮古島にはなかったので珍しく、屋上に登った。

もうとてつもなく高く、遠くまで見はらして、下ははるか下に見えた。



すごいなー、と感心していると、”すごいだろー、お前ここから飛んで降りれるか?”、なんてからかう奴がいた。

何となく、宮古島を馬鹿にされたような気がして、”飛べるさ”、と言ってしまったから、もう後にひけない。



それで、周囲を取り囲んでいたコンクリートを乗り越え下に飛んだ。



飛ぶ時小さく見えていた花壇の赤土を狙ったら、うまくそこに飛べた。



でも、さすがに二階の屋上は高く、右足首をねんざした。



下で痛くてうなっていると、教師たちが上から生徒が落ちた、と大騒ぎでかけつけ病院へ運ばれたが、幸いねんざで済んだ。

二週間程松葉杖で学校に通ったが、校長先生は何をどう思ったのか、”誠君は、ずっと松葉杖で学校に通い、1日も休まなかった、えらい、みんなも見ならうように”、と朝礼で褒めた。

さすがに僕は複雑な気持ちでそれを聞いていたのだ。



わずか二学期間だけの諸見小学校には、以外とたくさんの思い出があり、あの美しいパイナガマを忘れるぐらいだった。



こうして僕の小学校時代は終わる。



チャンスがあれば書きたしもするが、12歳までの人生はほぼこんなものだったのだ。



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