想像の世界(1623)サンエーのルーツは、1,950年に下里通りに折田商店を開いたことだと語ったが、真実ではない。


想像の世界(1623)サンエーのルーツは、1,950年に下里通りに折田商店を開いたことだと語ったが、真実ではない。



株式会社サンエーのルーツは1,950年、昭和25年に、下里通りに折田商店を開いたことがルーツだと折田喜作が語ったが、それは真実ではない。

俺が何度も何度も本人から聞いているのは、1948年、昭和23年に、彼の長女節子が生まれた年に、城辺の長間から平良の街に歩いてきて、中山商店に中山勇吉を訪ねて、”アザ(先輩)、後輩の折田喜作です。無一文だけど商売を教えてください。”、と言うと、中山先輩がリヤカーにマー油(食用油)と一斗缶を積んで、杓子でこれを分けて売って来いと言うので、平良の街を回って売り歩いたら、戦争が終わったばかりで、物不足の時代だったので飛ぶように売れてなくなると、もう一缶積んで、半分を俺の利益としてくれたと、折田喜作は俺に何度も語ったのが、つまり折田商店は、それから2年後の1,950年、昭和25年に、”アザ、平良で店を出したいけど”、と言うと、当時は田舎の人間が平良の商店街に店を持つということは並大抵のことではなかったが、勇吉先輩は俺を商店街の模合にも入れてくれて、真っ先に金を取ってくれたのも、商店街の幹事を中山先輩がやっていたおかげで、その資金も中山先輩が作ってくれたもんだ、と、これも何度も何度も俺に語ったわけだ。



だからこそ、俺を長女の節子の夫にと望んで婿にしたわけで、その縁で、俺がサンエーを最初から沖縄一の企業になるまで全部仕切ってきたわけで、このように、中山勇吉と俺がいなければ、当然今のサンエーはないわけで、つまり中山勇吉と誠の二代にわたる協力が、サンエーのルーツの全てってわけだ。

折田喜作の一生の夢は年商10億円だったわけで、それも夢だったわけだ。

だから中山誠がいなければ、つまり年商10億円ですら夢で終わったわけだ。



昨夜、たまたま折田喜作が語ったサンエーのルーツの話には、最初から最後まで中山勇吉と中山誠の名前が出てこないことに呆れて、今俺がサンエーのルーツの真実を話しているわけだ。

折田節子、和子、富子、譲治は、サンエーのルーツすら知らなくて、100億円、200億円、300億円だとそれぞれが持っている資産は、つまりその元となっているのは中山勇吉と次男坊の誠が作ったことを夢夢忘れるなよ。

分かったか!



ま、俺は15年ほど前に台湾の、台中の山上のリゾートホテルで食べた金華ハムで出汁をとった黄金色のスープと、我が家の、5種類のキノコと半熟卵の味噌汁が世界一うまいスープだと思っていて、今それを食ったわけで大満足だ。

そして食品添加物のない食材で、無化調の料理の中山(ちゅうざん)の食事を朝から晩まで毎日食べているわけだ。

つまり、それ以上は俺にとっては無駄なことで、偉そうに威張って何百億円だ何千億円だと資産を作っても、これは全て絵に描いたモチで徒労ってわけだ。



ところで、もう15年以上も金華ハムで出汁をとった黄金のスープには縁がないけど、もう一度食べたいなー。

ま。我が家の味噌汁でも大満足だけどな。

じゃあな。



2023年12月26日



人生波乱万丈!73歳脳出血後遺症と共に歩む中山誠氏の思い出話が面白い。
中山誠の思い出 memories
中山誠氏の思い出話しが面白い。本当に、相当面白いのだ。これだけの波乱万丈な人生を送ることができる人が、いったいどれだけいるのだろうか?そしてこの物語(思い出)には、戦後沖縄の歩んで来た歴史の中で起こる様々な出来事ともとても関連が深い。現代の沖縄史といっても過言ではないのか…



同じカテゴリー(想像の世界)の記事

※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。