Diary 229 帰りのセニアカーもなんとなくルンルン走っていたな。



Diary 229   帰りのセニアカーもなんとなくルンルン走っていたな。



Diary 229 帰りのセニアカーもなんとなくルンルン走っていたな。



今日はアルクラだ。

寒くなったり、暑くなったり、最近の天気は不思議なもんだ。

直美が休んだらと誘惑するので困るけど、本当に誘惑される日もあるのだ。

何か気のせいか、本当かは知らないが、寒い日がやはり辛い。

足が重くて100トンぐらいあるように上がりづらいし、肩は痛いし、ロクな事はないし、倒れそうにもなる。

それでもアルクラへ行こう。



今日は風が強く、セニアカーはオープンカーなのでとても寒かった。

外歩きを加持さんと頑張って、島の駅を折り返して、歩行訓練コースの4分の3位まで来ると前から兄が来た。

嬉しくて、楽しく話をしながら、アルクラまで一緒に戻り、アルクラでさらに30分以上懐かしく色々と話をした。

”今だから言うけど、倒産は1つには琉銀の約束違反が第1の原因で、第2が折田喜作の約束違反なのだ、だから勲兄さんと、公子姉さんには大変な迷惑をかけたので、全て僕が悪いと言い訳もしなかったけど、倒産までは、やはりサンエーを作った天才は僕だったのだよ”、と言うと、”そうだね”、と言って勲兄さんは笑っていた。



兄には、実質億円単位の迷惑をかけているわけで、兄も立派に立ち直り、県立沖縄精和病院の院長まで上り詰め、沖縄県の医者のトップにまで上り詰めた事は本当に嬉しいことだ。

今も玉城病院の院長として頑張っているが、体重が90キログラムを超え、5種類も薬を飲んでいるようで、気をつけないとやばい状態だと思う。

ただタバコは吸わないし、酒も飲んだとしても2杯までらしいので、だいぶ気をつけてはいるようだ。

僕も薬は数種類飲んでいるが、最も大事な薬は痛み止めで、しかもそれが大して聞かないから厄介だ。

要するに痛み止めを飲んでも痛いが、飲まないともっと痛いのだ。



話が節子や子供たちの話や、”折田澄さんも93歳は過ぎたろうが、まだ元気かねー”、と言うと、”もう死んだと思うよ”、と言うので、”何も報道されなかったと思うよ”、と言うと、公子姉さんに確認してくれた。

やっぱり数年前に亡くなったらしい。

僕にとっては悪たらしい人でもあるが、反面彼女も折田喜作の犠牲者でもあると思うので、冥福を祈る。

これでまた莫大な遺産が節子には入り、つまり子供たちもいずれそれを受け継ぐのだから、もう経済的な心配は一切ないなと思った。

また、勲兄さんの話では、裕子の子、つまり僕の孫も10歳位で、公子姉さんにアメリカから動画でダンスする様子など送られてきて、なかなか活発な子らしいし、ハンサムらしいので、一度は見てみたいもんだと思う。



次に公子姉さんに手紙を書いて、送るように頼もうと思う。

ついでにニューヨークの生活や、夫のこともちょっと聞いてみよう。

何せアメリカや、アメリカ人の夫なんて、なんとなくでも、やはりピントは来ない。

でも、せめてもの幸せは、裕子が幸せになっていることで、公仁、典久の事では、節子も苦労しているのではないかと思う。

節子が5年前大浜病院に、僕を訪ねて来た時は、僕の記憶や意識も50%ぐらい回復していない全くの病人状態だったと思うが、それでも節子は苦労している様子が見て取れたもんだ。

何か協力できる事はあるだろうが、特には何もできないのも現実だ。

脳出血からの脱出のための努力も、あれこれやってはいるが、まだ常人のようには動けないし、借金の返済もまだ終わってないので、今はただみんなの幸せを祈るのみだ。



さて、今日は1年ぶりに兄と会えて本当に嬉しかったし、楽しかった。

かなり本音の会話もお互いできたと思うし、アルクラの皆にも僕の兄がわざわざお見舞いに来ていると好評で良かった。

また会える日が待ち遠しいな。

帰りのセニアカーもなんとなくルンルン走っていたな。



2019年 2月1日

人生波乱万丈!73歳脳出血後遺症と共に歩む中山誠氏の思い出話が面白い。
https://kamosan.ti-da.net/e10459057.html




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