想像の世界(709)それがサンエーのスタートとなったわけだ。サンエー2,000億円の始まりってわけだ。

ま~ちゃん

2021年09月16日 12:00






今朝は快晴で、風もそよ風だ。

夢うつつにサンエーの事が色々思い出されていたが、今のサンエーの歴史を知っている人間は多分俺一人かも知れない。

つまり節子、和子、富子の折田喜作と澄の娘3人も知らず、まして富子の夫のサンエー会長、折田譲治も、社長の上地哲誠も知らんだろう。

つまり株式会社サンエーの歴史を知ろうと思えば、俺の生い立ちの半世紀を読めば分かるってわけだ。



サンエーが出来た頃に入社したのが上地哲誠だが、哲誠は事務の娘とデキてしまい折田喜作の逆鱗に触れクビになったので、一年後泣いて謝って詫びて、何とかサンエーに復帰したわけで、それ以来折田喜作には一言も逆らわず、完全なるイエスマンになったのが功を奏して今社長に上り詰めたわけだ。

会長の譲治は福里譲治と言う中々の好青年で、三女の富子と結婚したが、元々は一級土木士として国建設で働いていたのを、俺、中山誠が去った後数年してサンエー折田喜作の養子となり、折田に姓に変えて、福里丈治から折田譲治になったわけだ。



勿論、譲治は俺とも会った事はあり多少は俺の事も知ってはいるが、折田喜作から俺については悪口しか聞かされてはいないと思う。

昔はとても臆病な子だった富子も、誠兄さんについては本当の事など何も知らないだろう。

次女の和子も何も知らず、結局サンエーの歴史は、ある程度知っているのは長女の節子だけってわけだ。



だけど節子も、年商8,500万円程度の折田百貨店と言う名前の店を年商3億円の宮古島一にして、年商5,000万円程度のサンエーを年商70億円余りの沖縄一の株式会社サンエーにしたのは俺だった事は知っているが、そもそもの折田喜作と澄の夫婦が、城辺町の長間からはるばる平良に出て商売を始めた歴史などは全く知らないわけだ。

だから今一度、節子も和子も富子も、富子の夫の譲治も、そして折田喜作の腰巾着としてサンエーの社長に上り詰めた哲誠も、俺の半世紀、アカンバまーちゃん、Days of Memoriesを読み返すのを勧めるわけだ。



年、年商1,992億円で約2,000億円となったサンエーは、そもそも折田喜作の一生の夢だった、”生きている間に一度年商10億売るのが俺の一生の夢だ”、と言うのを実現してやろうと、俺がサンエーのチェーン展開を始めたのがスタートだが、それも折田喜作の猛反対の中で始まったのだ。

そもそも折田喜作の夢のサンエーの年商10億円は、3人の娘にエースとなる婿を迎えることでサンエーと言う名の店を作ったので、まず節子に結婚させ、次に和子の婿、そして最後は富子の婿と言うのを、俺がそうして長年かけて年商10億円なんてまどろっこしいと即座にチェーン展開を始めたので、折田喜作は猛反対した訳だった。

つまりサンエーの歴史は猛反対を押し切って俺が築き上げたものだ。



まず猛反対の中で最初のコザ店は、折田喜作の想像を絶する大成功だったので、翌年那覇店にいた上地哲誠が浦添市の地下駐車場が安く借りられると紹介したのが浦添店だったわけで、それも又猛反対を押し切っての大成功で、つまりサンエーの歴史は全て猛反対を押し切っての大成功の歴史ってわけだ。

ま、今では年商2,000億円にもなったサンエーだが、当初年商5,000万円だった那覇市国際通りの一番はずれ、安里三叉路近くで細々とやり、店舗の奥の薄暗いレジの机に、つっかけサンダルとランニング姿でポツンと座って年商10億円を夢見ていたのでは、やはり年商10億円ぐらいが関の山だったかも知れないのだ。



俺は長女の節子と結婚し、結婚式場で雑用で走り回っている青年を見て、折田喜作に、”アレは誰だ”、と聞いたのだった。

すると折田喜作は、”アレが上地哲誠だ。何度も手をついて土下座して泣いて謝るので許した”、と言うんで、”ふーん、アレが哲誠か”、と俺も分かったわけだ。

その哲誠もいなかったサンエーで、俺は毎日、”いらっしゃいませ、ありがとうございました”、と笑顔で言う訓練をしていたわけだ。

それがいわばサンエーの始まりで、哲誠がいた最初のサンエーは年商5,000万円の、いらっしゃいませ、ありがとうございます、なんて声もなく、笑顔もない、ただ物を売るだけの店で、沖縄全部がそういう店で、いわば敗戦国の米軍統治の島そのものだったわけだ。



それを俺はサンエーで一変させ、おかげで今では沖縄中が明るさと活気に満ち溢れた人々だらけってわけだ。

そもそもサンエー、つまり折田の仕事の始まりの原点は、無一文の折田喜作と澄に、中山勇吉と光子が面倒をみて商売を始めさせたわけで、翌年には更に中山勇吉の世話で平良市No.1の模合のメンバーとなり、その資金で平良市下里に折田商店を作ったのが最初の店舗なのだ。

つまり、商売の始まりは中山勇吉と光子のおかげで始まり、サンエーの始まりは俺、中山誠によって始まったわけだ。



その始まり全てはDays of Memories、アカンバまーちゃんと言う俺の半生記で分かるわけだ。

サンエーの会長、折田譲治と、社長の上地哲誠には、今一度読んでサンエーの成り立ちを噛み締めて欲しいもんだ。

ま、いわば、”誰も知らないサンエー”、の歴史を掻い摘んで述べたわけだ。

いくらかは納得出来たかな、譲治。



ま、イエスマンだった哲誠にしたら言い分はあるだろうが、哲誠、お前の名前は中山誠と北野哲2人の名前で出来ていることを忘れるな。

と、まぁこれがサンエーの生い立ちってわけだ。

特に節子と和子と富子には知って欲しいな。

知って、覚えて、そして忘れないで欲しい。



喜作と澄の若い夫婦が、毎日はるばると城辺の長間からリヤカーを引いて平良の街、下里の市場通りの中山商店まで来て、油の一斗缶を積んで平良の街中一軒ずつ売り歩いて、しかもその頃は物不足の戦後で油は飛ぶように売れ、日によっては一斗缶2つ目まで取りに戻るほど売れたので、一年で独立して折田商店が出来、それがサンエーのスタートとなったわけだ。

サンエー2,000億円の始まりってわけだ。

分かったかな。



2021年5月12日



人生波乱万丈!73歳脳出血後遺症と共に歩む中山誠氏の思い出話が面白い。
中山誠氏の思い出話しが面白い。本当に、相当面白いのだ。これだけの波乱万丈な人生を送ることができる人が、いったいどれだけいるのだろうか?そしてこの物語(思い出)には、戦後沖縄の歩んで来た歴史の中で起こる様々な出来事ともとても関連が深い。現代の沖縄史といっても過言ではないのか…

https://kamosan.ti-da.net/e10459057.html

関連記事