想像の世界(2082)つまり勉強はやめて、遊びの天才だったのだ。

ま~ちゃん

2025年05月06日 07:00






”春は名のみの風の寒さや
谷のうぐいす歌は思えど
時にあらずと声も立てず
時にあらずと声も立てず”



今朝も寒い朝だ。

今ストーブも暖房もつけたが、まだ寒い。

4月でもう春だと言うのに寒い。

これじゃ、うぐいすも歌えないな。

もっとも、宮古島には谷もないし、うぐいすなんて見たこともないし、当然ホーホケキョと鳴く、うぐいすの歌なんか1回も聞いた記憶もない。



姿がそっくりな目白は、小学校に入学した頃、既に巣箱の上に罠も作ったりしたものだが、もう目白も見たことがない。

昔は市内にも大きなヤラブの木が所々の家にそびえ立っていて、目白もよくその木で遊んでいて、俺はそれを捕まえる名人だったもんだ。

小学校に入学する頃には、目白の巣箱も、空高く飛ぶタコも、ギッチョも、ありとあらゆる遊び道具は、先輩の兄さんの作るのを見て覚えて、全部自分で作ったものだ。

つまり勉強はやめて、遊びの天才だったのだ。



それなりに知識欲は人一倍大きかったので、色々な本で物語を手に入れたわけだが、何もない時代だったが、道路や天久病院の庭で、天国の小さな穴を作って遊んだり、ギッチョで遊んだり、冬はタコを作って空高く飛ばして遊んだり、時にはタコの糸が強風で切れたりして、遥か遠くまで飛んでいってしまい、それを追いかけて探し回ったものだ。

ギッチョや目玉、マーブルで遊んでいて、ギッチョやマーブルをドブに落としたりもしたが、当時のドブの水はまるで小川の水のようで、その中に落ちたものを拾って、濡れた手をズボンで拭って、その 手でまた芋などを食べたりしたもので、衛生観念なんてまるでなく、手を洗うなんてしたこともなく、その手で芋を食べたりサトウキビをかじったり、何でも手づかみして食べていたが、病気になったこともないし、せいぜい数年に一度ぐらい熱を出したが、それでも病気とも思わず、寝込んだこともなく、痛い頭のままで遊んでいたものだ。



おかげで風邪薬なんて飲んだこともないし、病院で医者の世話になったのは5〜6歳の頃、樹から真っ逆さまに落ちて、額を何針も縫うぐらいに切って、ペロンと額の皮がまぶたを覆うほど垂れ下がった時と、錆びた五寸釘の出ている木を踏んで、その釘が足の甲を貫通する寸前に皮膚が盛り上がっていたの、痛くて泣いていたら、子供同士の情報で駆けつけたハツおばさんが、エイと抜いてくれて、奥平病院にかつぎ込まれた、その2回はあったが、2回ともかなりの大怪我だったわけだ。

額の傷跡は今も残っているが、足の傷は癒えたが、60年も過ぎた時に右大腿骨を骨折して、今は半身不随の上に、その足を人工骨で繋いであるわけだ。

これが、過去最大の病みたいなものだ。



今日は全くの無風で、どんよりと曇っていて、春だと言うのにストーブも付いて、暖房も入っているがまだ寒い。

博文は2時間も前から来て、庭の草むしりをするし、片付けてきれいにしているのだ。

昨日に引き続きの2日連続来てくれているが、最近は雨も続いていて、ずっと博文は休んでいたので、今回は2日続けて頑張っているわけだ。



子供の頃の平良の街には、まだ大きなヤラブの木などが所々にあって、平屋しかなくて、2階建てすらなくて、ひなびた静かな街で、子供が外で遊んでいて、子供の天国のようだった。

今はつまらない高層の建物だらけで、世も末だな。

じゃあな。



2025年4月6日



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