74.day of Memories アカンバまーちゃんの人生
コザ店は、全て新コザ店に移行する準備に取り掛かり、新コザ店では1階の食品店が300坪あまりの中部一の巨大な食品スーパーの異形を見せ始めていた。
ダイナハで随分研究していたものの、生鮮産品のコーナーは、特にそのバックヤードについては竹中工務店のお世話になったものだ。
そして1階から4階までのエスカレーターが、エレベーターと合わせてコザ市では初めての素敵な様相を見せ始めた。
更にそれだけでなく、俺は衣料コーナーでも那覇のデパートに負けないおしゃれなファッションブランドを取り入れていた。
中でも特に力を入れたのは、女性のファッションには当時日本一人気のあったブランドなどには、足しげく何度もお願いして遂に導入に成功したが、俺は担当者のみならず、その企業の専務と意気投合し愉快に飯を食ったりしたものだ。
日本一の人気のブランドが、そこだけで小さなブティックなら1店舗分ぐらいのコーナーをとって素敵な雰囲気を醸し出していたのだった。
そして社員、つまり従業員は全員1ヶ月前から毎日特訓に次ぐ特訓で、特に食品部は全員10kmのマラソンをして、”いらっしゃいませ、ありがとうございます”、と笑顔の特訓を繰り返したのだった。
もともと明るい子たちではあったが、それまでの沖縄ではお客様へ笑顔で、”いらっしゃいませ”、なんて言う店はなかったものを、俺は徹底的に習慣付けていたわけだ。
そして社員募集に関しても、スーパーでは初めて高卒が大量に入社し、更に大卒も初めて導入された。
つまり、沖縄県では初めての事はサンエーでじゃんじゃん導入されていたのだ。
後日、徐々に段々普通になっていった事も、最初導入するには大変な努力と苦労があった事を人は全て忘れており、まして誰1人としてそんな事を誰が始めたなんて事は話題にもなった事は無い。
本土復帰前の時代、19歳になる直前に与那覇、西原、那覇、首里、そして中城、北中城、コザから石川までの各地の土地の価格を調べて、俺が将来絶対重要になる思った場所を買い上げようと、母ちゃんに、”7万ドル貸せ”、と交渉し、”このブローカーフファガマ”、このブローカーのガキめ、と言われたが、取り敢えず5,000ドルは借りれる事になったものの、一緒に事業をやる事になっていた仲間ヨシノブが大阪に行く事になり、頓挫したものだった。
勿論、まだ沖縄には不動産屋なんて言うものはなく、土地を売り買いするなんて感覚はまるでなかった時代だっただ、俺は何となくその時代が押し寄せてくる予感がして、取り敢えず重要な場所を全部押さえておこうと思ったのだ。
その後、松下幸之助に手紙を書いて沖縄改造計画書を提出したりもしたが、これも頓挫してしまったが、実現したら沖縄の発展は数十年早まったんじゃないかな。
ま、本来政治家がやるべき仕事だけどね。
こうしてサンエーコザ店の準備は着々は整っていたが、何よりもそれらに先駆けて、6人の社員は熊本のニコニコ堂にお願いして3ヶ月の実習を行っていたのだった。
まだ寒い頃で、みんな手に霜焼けのひび割れで血を滲ませて、痛さを堪えて頑張っていた。
俺は3カ月間、毎週土曜日から日曜日にかけては熊本県に通い、彼らを励まし続けた。
彼らも想像以上の頑張りを見せ、その頑張りぶりは熊本ニコニコ堂の社長もみんなも感動したものだ。
勿論サンエーコザ店のみんなも、現在の新店舗の社員教育以上の、喜びに溢れた根性ある頑張りで、全てが沖縄県初の喜びに満ちていたのだ。
更に、沖縄県では初めてサンエーが漁業組合に入り、魚類のせりの準備もしていた。
やがてサンエーコザ店はオープンを迎えるのであるが、サンエー初の食品では、”生鮮三品、特に鮮魚は絶対専門の業者に任せた方がいい”、というのが熊本ニコニコ堂の林社長のアドバイスで、ニコニコ堂では今でも鮮魚は全て専門の業者に任せていると言うのだ。
でも俺は、”ありがとうございます、でもサンエーは自分たちでやります”、と答えた。
つまり、”アカンバユ”、と言うわけだ。
食品、つまり食物をやろうと俺は覚悟を決めて、数年研究して来た。
そして今、3ヶ月の実習でみんな燃えている。
だから何が何でも自分らで、道を切り開いて行くんだと、俺には少しの迷いもなかったのだ。
このような気持ちは、おそらくみんなにも伝わっていたと思う。
勿論、社長が山形屋の教育担当課長を、サンエー衣料部の教育担当部長で迎え入れて、九州山形屋の流れを組むデパート式教育の、あり来たりの教育をやってはいたがね。
俺から見れば燃えるものはない、つまらない教育だったが、ま、それなりに女の子たちは上手に取り入れてはいたがね。
さて、名護店の反対運動を賛成に導き、具志川店以降は常に商調協(商業活動調整協議会)と言う、当時は150坪以上は大店舗とみなされ、業者、消費者、学識経験者の3者との協業をしなければならなかった。
勿論サンエーからは俺1人が参加し協議するが、いつも俺は理論的に彼らに全部勝って、結局賛成多数に持ち込んで来た。
今回のコザ店でも協議は3度行われたが、特に学識経験者は、やはり学者は自分を偉く見せたいのだろう。
兎に角色々な数字を質問するのだけど、俺はすべてシミュレーションして300ほどの数字を記憶しており、全部ソラで答えるのだった。
学者たちは、”先日君はこう言ったじゃないか”、と数字を違えて質問するが、俺は商工会議所に全て録音させてあるので、すぐに、”いや、ちゃんとこう答えました、じゃあ録音を確認して下さい”、と言うと、相手は黙ってしまうのだ。
あっちこっち叩こうと数字を質問してくるが、せいぜい質問できるのはとてもとても300もないのだ。
あいつらは色々探したつもりでも、せいぜい数十の数字に過ぎないのだ。
結局、又俺は議論に勝って、商調協での協議は賛成多数で、サンエーは無傷でオープンを迎える事になったのだった。
ところが、当時コザ市商工会議所の会頭だった西田文光、つまり俺の同級生の淳子の親父が俺に電話してきて、売り場面積を減らせと脅すのだ。
俺は無視する事にした。
そしたら今度は日本政府の沖縄支部の課長から呼び出しがあり、俺は泊の支部へ行った。
何でもコザ市の商工会議所の依頼により、サンエーコザ店の売り場を減らして欲しいと言うのだ。
俺は、”出来ません、既に商調協でもオーケーをもらってますから”、と答えて、頑として言う事を聞かないのだ。
とうとう課長が、”誠君、では俺も天下の宝刀を抜くよ”、と言うのだ。
つまり、今後何かにつけサンエーのやること成すことには、日本政府はイチャモンをつけるかも知れないなーと俺すぐにピンときた。
それで、”では4階の売り場を100坪減らします”、と答えると、課長は笑って、”誠くん、それで手を打とうか”、と言ったのだ。
政府の課長は民間の課長より偉いみたいだな。
中々頭もいいし、何より伝家の宝刀を持ってるしなーと思ったものだ。
2020年 9月5日
人生波乱万丈!73歳脳出血後遺症と共に歩む中山誠氏の思い出話が面白い。
中山誠氏の思い出話しが面白い。本当に、相当面白いのだ。これだけの波乱万丈な人生を送ることができる人が、いったいどれだけいるのだろうか?そしてこの物語(思い出)には、戦後沖縄の歩んで来た歴史の中で起こる様々な出来事ともとても関連が深い。現代の沖縄史といっても過言ではないのか…
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