アカンバ・まーちゃん(余談15)だから、創業者は折田喜作ではなく中山誠ってのが本当だな。

ま~ちゃん

2022年08月10日 07:00






アカンバ・まーちゃん(余談15)だから、創業者は折田喜作ではなく中山誠ってのが本当だな。



俺が節ちゃんを嫁にもらうと決めた後、折田のおじさんは崇元寺の俺の家へ毎日俺を訪ねて来て、2〜3時間程おしゃべりするのが日課となっていた。

そして、”誠、RBC近くの土地を買わんかと言われているけれども、お前どう思う”、と言うのだ。

俺は、”1坪いくらねー”、と聞くと、20$と言うわけだ。

俺は絶対安いと思ったので、”おじさん、俺は前に西原町から石川市まで土地の値段を調べた事があるけど、首里でもいい所は坪40$しているから、これは絶対買いだな”、と答えると、”そうか、じゃあ買おうかな”、と言って帰ったわけだ。



翌日、折田のおじさんが来て、”親戚が反対してるので買うのをやめた”、と言うんだ。

俺は、”おじさんはホテルを作るのが夢だと言っていたじゃないか、もうあんな場所は中々見つからないよ”、と言うと、”分かった、じゃあ買うよ”、と言って帰って行ったけど、翌日又来て、”やっぱりみんな反対してるのでやめたと”、言うのだ。

俺は呆れて、”おじさんホテルを作るのが夢なんだろ、そんな夢のためなら20$なんて安いもんだぜ”、と言うと、とうとう最後には買ったわけだ。

RBC、商業高校近くに380坪の土地を買ったのが、後のサンワホテルってわけだ。



その前に、5月15日に沖縄本土に復帰して沖縄県になると、本土から業者がどっと押し寄せ、折田のおじさんが坪20$で買った土地が、1坪40$余り、つまり1万円以上になったので、折田のおじさんは俺の所に来て、”誠、俺の20$で買った土地が倍の40$余りになったぞ、だから売ろうと思うんだ”、と言うので、俺は、”絶対駄目だ、ホテルを作る場所を探しても、そこもやっぱり値上がりしてると思うよ”、と言うと、そうかとガッカリして帰っていったんだ。

しばらくすると、”誠、なんとあの土地が坪70$になってるから売ろうな”、と言うので、又俺は、”絶対駄目だ、おじさんの夢のホテルは、もう建たないと思うよ”、と言うとしょんぼりして帰って行き、結局その土地は売らなかったわけだ。

このように、節ちゃんと婚約すると折田のおじさんは毎日のように俺の家に来て、俺と2〜3時間話すのが楽しみになったわけだ。



その土地に2〜3年経って、ちょうど沖縄海洋博の寸前にサンワホテルが建ったわけで、そもそもホテルがどうしても欲しかったのは、宮古島の友利電気が、当時宮古島出身者としては第一号の、当時としては5〜6階建ての大型ホテルを持つ大成功者として、経済界で名を馳せていたのに憧れていたからだ。

そして折田喜作は、俺に或る日、”誠、お前の夢は何だ”、と言うので、”うーん、ちょっと思いつかんなー、おじさんの夢は何ねー”、と聞くと、”俺の夢は一生に一度は、年商10億円を売ってみることだ”、と、さも誇らしくそう言うので、”年商って何ねー”、と言うと、”一年間の売り上げで、今のサンエーは年商5,000万円ぐらいかな”、と言うんだ。



”ふーん、じゃあ中々大変なんだね、じゃあ、あの三越百貨店はどれぐらいね”、と言うと、”馬鹿、あれば東京銀座の三越百貨店の沖縄店で、あんな年商30億円も余る巨大な店は、夢の又夢だ”、と言うので、”じゃあ、おじさんは、あの3分の1の年商10億円が一生の夢ってわけか”、と言うと、”お前は俺の一生の夢を馬鹿にするのか”、とカンカンになって怒り、”じゃあお前の夢は何だ”、とまた聞くので、”そうだなー、特に何もないけど、強いて言えば、おいケネディー、あれはこうしろ、とか、おいドゴール、これはこうしろ、とか自分の部屋の電話で、あいつらの難しい問題の解決法の相談を指示命令することかな”、と言うと、おじさんは呆気にとられて、”それは何だ”、と言うので、”おじさんが夢は何だと言うからさ、アメリカの大統領や、フランスの大統領に戦争を起こさないようにさせる事ぐらいかなと思ったわけさ”、と言うと、”お前は馬鹿か”、と言うんだ。



それで、”うーん、夢なら出来そうもない事であって、年商10億円売るなんて、年商5,000万円のこの店を20作ればいいから簡単じゃないか”、と言うと又、”お前は俺を馬鹿にするのか”、と言う事わけだ。

ま、それで折田のおじさんの一生の夢、10億円を売ってあげようとしたのが、そもそもサンエーをチェーン展開したわけで、それも折田喜作がサンエー第2号店の出店の、コザ店出店を猛反対したので、”じゃあ自力でやるよ”、と俺が店の出店の店舗の賃貸を契約して、開店の準備の仕入れを開始したので慌てたわけだ。



そもそも当時の沖縄では、まだニコリともせず物を売っていたわけで、ニコニコして笑顔で、”いらっしゃいませー”とか、”ありがとうございました”と言う店を訓練したのは、俺が那覇のサンエーで10日間ほど従業員を訓練してサンエー那覇店の売り上げ増を図ったのが、国際通りに従業員が全員いらっしゃいませとか、ありがとうございますとか笑顔で言っている変な店があるよ、と全琉、つまり沖縄中で有名になり、サンエーは発展し、売り上げは年商5,000万円から軽く1億円を突破して上がり続けていたのだ。

こうして遂には全琉、沖縄のあちこちへの出店でついに沖縄一の売り上げの大企業にサンエーを君臨させたわけで、その結果ずっと沖縄に君臨し続けているサンエーは、つまり俺が作ったようなものだ。



だから、創業者は折田喜作ではなく中山誠ってのが本当だな。

ま、当時ペーペーだった上地哲誠も、折田喜作に次ぐ二代目社長を降り、今は相談役となり、婿の折田譲治は会長から特別顧問となり、新城健太郎新社長で、俺の誕生日の6月17日に宮古島空港の東に新店舗を出店とは、本当におめでたい事だ。

ま、このようなサンエーの歴史はもうみんな忘れているが、そして俺に、”残念だね”、何て言う奴もいるにはいるが、俺はサンエーを引退して清々しているわけで、つまり食品添加物だらけの食品の数々は、日本の全店舗に満ち溢れており、今度は食品添加物のない材料で作った料理と、つまみで楽しむ居酒屋が大繁盛して、開店31年目を迎える老舗として、南の島、宮古島で、宮古島ではNo.1の売り上げに大満足しているわけだ。

だから、節ちゃんも、公仁も、典久も、裕子ちゃんも心配しなくていいよ。



2022年6月19日



人生波乱万丈!73歳脳出血後遺症と共に歩む中山誠氏の思い出話が面白い。
中山誠氏の思い出話しが面白い。本当に、相当面白いのだ。これだけの波乱万丈な人生を送ることができる人が、いったいどれだけいるのだろうか?そしてこの物語(思い出)には、戦後沖縄の歩んで来た歴史の中で起こる様々な出来事ともとても関連が深い。現代の沖縄史といっても過言ではないのか…

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