暴走老人、石原慎太郎が死んでもう2年も過ぎたが、確か89歳で死んだと思うので、生きておれば91歳になったわけだ。
命もいらず、名もいらず…と、ただ国の政治を清く正しく美しい政治にしたいとの思いで、作家をやりつつも国政を正したいと、国を憂慮して政界に打って出たわけだが、その点は勇気のある男だなーと常に俺は感心していた。
思いだけは常にあるが、政界なんて言う魑魅魍魎の住む世界などには興味さえなかった俺は、その点では美しき鬼ババァの母と似ている考えだったわけだ。
石原慎太郎のように政治を憂慮して政界に打って出ようとした父だったが、愛する妻の猛反対を押しを切ることが出来なかったわけだ。
俺は父の生き方の正しさは一番好きで、同じ誠の生き方をしようと常に考えていたが、それを人に押し付けることは一切なくて、つまりそんな世界には我関せずと、己の道のみを真っしぐらに生きていたわけだ。
今思えば、ただ単に俺は唯我独尊と思いつつ、自分の世界に生きていたわけで、そしてその高みの世界から世の人々の行動を面白がって眺めているだけで、そして若い頃は世界を見たかったわけで、一番最初に見たかったのはジャン・ギャバンの映画、望郷のペペ・ルコモの住んでいた迷宮都市モロッコが見たくて、それとゲイリー・クーパーの外人部隊の通った街アルジェも見たくて、まずはアフリカに行こうと、高校3年の2学期の始まる日に家出をしたわけだ。
ま、それでコザ市から石川市まで、親友の儀武息勇から5ドルを借りて、また那覇まで歩き、泊の港からアフリカを目指して船出したわけだ。
次に石垣島から台湾に渡り、更にアフリカへ渡るつもりだったが、世界へ渡るのにはパスポートと言うものが必要などとは全く気がつきもしなかったわけだ。
それで大人になってから、改めてまずタイを見て、オーストラリア、バリ島、香港と旅行したが、みんな似たようなもので、観光といっても世界は大したことないなと思い、今は故郷の宮古島で大満足して暮らしているわけだ。
住めば都、住むなら宮古島ってわけで帰ってきたが、海鮮酒家中山(ちゅうざん)を作った頃は、市内には観光客はまるでいなくて、中山(ちゅうざん)も平良の人々の憩いの場所で、宮古島にない料理を宮古島一の味付けの料理で食べさせる街の人々の憩いの場としてつくったが、今は4時から8時か9時まではほぼ全て観光客だらけとなってしまったのだ。
それも毎年1〜2度は内地から訪れる常連も多く、特に宣伝はしていないが、口コミで取り敢えず宮古島一の居酒屋を続けているわけだ。
離島観光ブームはまだ続いていて、市内の他店もそれなりに潤っているようだが、何せ居酒屋も激戦区となっている今の宮古島は、もう何百軒の店で観光客目当てに暴利を得る価格の店だらけのようで、一番大きな居酒屋の中山(ちゅうざん)が、宮古島では一番安い店のようだ。
ま、昔、未成年の高校生どころか、中学生もどさくさに紛れて大人をふりをして遊びに来たことはしょっ中だった日が懐かしくもある今日この頃で、今では観光客だらけで、そんな若い奴はほぼ無理な世界になってしまった。
さて、つい先頃までシトシト降っていた雨もやっと上がったようだ。
でも、まだ雨雲は広がっており、少し薄暗い天気だ。
明日のアルクラはちゃんと行けるかな。
勿論、雨なら休むわけで、もう昔のように週に5日も連日下地診療所に通っていたことが、まるで嘘のようにも感じるわけで、今はもう無理なリハビリも、もう10年以上にもなるわけで、全て程々ってわけだ。
じゃあな。
2024年10月24日
人生波乱万丈!73歳脳出血後遺症と共に歩む中山誠氏の思い出話が面白い。
中山誠氏の思い出話しが面白い。本当に、相当面白いのだ。これだけの波乱万丈な人生を送ることができる人が、いったいどれだけいるのだろうか?そしてこの物語(思い出)には、戦後沖縄の歩んで来た歴史の中で起こる様々な出来事ともとても関連が深い。現代の沖縄史といっても過言ではないのか…