俺の大好きな吉野敏明が、”医療と言う嘘”、と言う本を出した。
俺は兄も弟も医者だが、10年あまりも医者にもお世話になっているが、最初は1ヵ月に1度の診察を命じられていたが、納得出来ず診察を受けることはやめると言ったら、それは駄目だが、2ヶ月に1回にしようと言われ、今も2ヶ月に1回は診察を受けているのだ。
だがいつも聴診器を胸に数回当て、後は一度、変わりはないかと聞いて終わっていて、それが11年も続いているだけだ。
だから俺としては、具合が悪ければ診察を受ければいいが、それ以外は行きたくないのが本音だ。
それに診察を受けに行くのは9時過ぎに行って、終わるのは12時を過ぎることも度々あるわけで、つまり医者の仕事はそれが大半で、だから俺も医者の仕事の大半の、医療と言うシステムは信用出来ないのだ。
でも医療と言うシステムをやめたら、診察を受ける人は激減して、医者の収入も激減するだろうな。
俺の母は医学か薬学になら仕送りもしてくれたが、それ以外は無視するので、やむを得ず、より簡単な方の薬学部へ俺も行ったわけだ。
つまらない授業ではあったが、友人を作りたい気持ちもあって、一応週に6日も大学には通ったわけだ。
つまらない授業ではあったが、試験の前日に教科書を数時間は勉強したわけで、それで何とか60点以上はとって進級はしていたわけだ。
高校までは90点以上はとっていたので、一応大学の方が少し専門的にはなっており、そう簡単ではなかったわけだ。
4年になる前の春休みに、故郷である沖縄へ帰っていたら、美しき鬼ばばぁの母が、”まーちゃんも来年は卒業したら、勲兄さんと一緒に病院を作り、その薬を見るのよ”、と言ったので、東京に戻ってすぐに大学は辞めたので、海上自衛隊に入りますと手紙を出したら、怒ってすぐ勘当させられたが、父は逆に、俺の跡継ぎが出来たと喜んでいたようだ。
ま、母は基本、医者以外はあまりいい稼ぎはないと思っていたのだろう。
ま、確かに当時は医者の稼ぎは飛び抜けて良かったからな。
だから勲兄さんも仁も、それなりにいい暮らしはしているんじゃないかな。
2人とも持ち家ではないが、一応高級マンションだし、もっとも、俺はマンションなども大嫌いで住もうと思ったことさえ一度もない。
最初の結婚で沖縄一の豪邸を作ったのも、何故か折田喜作にそのされたわけで、乗り気だったわけでもなく、当時としては300坪の高台に立つ豪邸は、それなりに目立ってはいたが、2年足らずでもう飽きたわけで、そそのかした折田喜作に譲ったわけだ。
すると、よせばいいのに、同じ敷地に100坪のより大きな豪邸を建てて住んでいたわけで、全くのアホだなーと思ったものだ。
その後、更により豪華な豪邸を造ったようだが、流石に敷地は300坪もなかったようで、ま、住宅としては300坪は限界じゃないかなー。
今、俺が住んでいるのも300坪の敷地だが、100坪の花畑を作っても、花木をすぐに枯らしてしまって、買った花木の3分の2は枯らしているのではないかなーと思うのだ。
昔は、周囲にはずらっとカイヅカイブキを植え、表に花、裏には畑を作って、食べる為の野菜は自分で作ったわけだ。
もっとも、2年弱しかやっていなかったがね。
さて、昔、何万坪かの、海のそばに家を数十軒建てて、世界の民族の家と言う仕事をしようと計画を立てたわけだ。
アジアのトラジャ族の舟型の家なども数軒建てる計画だったが、トラジャ族の家は、昔はトラジャ族の王族貴族の家だったようで、俺も気に入っていたのだ。
その他に、日本初のドームホームやロックホームを造るつもりだったわけで、資金不足で直美の母からも300万円借りたが、まだまだ不足で、結局やめてしまったわけで、日本初のドームホーム、ロックホームの総代理店もアメリカから取ってあったが、無駄になったわけだ。
結局、居酒屋が一番気に入った仕事で、34年になるが今も続いていて、直美が全部取り仕切っているわけだ。
うん。
じゃあな。
2025年4月13日
人生波乱万丈!73歳脳出血後遺症と共に歩む中山誠氏の思い出話が面白い。
中山誠氏の思い出話しが面白い。本当に、相当面白いのだ。これだけの波乱万丈な人生を送ることができる人が、いったいどれだけいるのだろうか?そしてこの物語(思い出)には、戦後沖縄の歩んで来た歴史の中で起こる様々な出来事ともとても関連が深い。現代の沖縄史といっても過言ではないのか…