想像の世界(2046)兎に角、人間生まれたのは、学問の前に、いかに幸せになるかってことだ。


想像の世界(2046)兎に角、人間生まれたのは、学問の前に、いかに幸せになるかってことだ。



ジャワの島には、人間の造ったと言われる2万年前のピラミッドの山があるそうだ。

ピラミッドを積み上げる方法なんて、現代の科学者でさえ、ああだこうだと騒いでいる話で、簡単ではないわけで、積み上げるのが現在でもほぼ不可能な巨大建造物は、世界中に沢山あるわけだ。



クレーンもない、テコの原理も知らないれば文明も文化も知らない野蛮人であるはずの人類が、巨大な何千トンもある石を積み上げ、建造物を作っていたなんて、それこそ信じられない話で、俺が中学1年の時に、生物の先生と進化論で30分近くの大激論して、俺は人間が猿から進化したなんてことはなく、人間は人間として進化したが、進化と言うより変化だなと言って、ダーウィンは間違っていると絶対に信じないので、先生も、世界中の全ての学者が認めているから教科書にも載っているんだと言って、議論を打ち切ったわけだ。



でも、中学1年生の俺は、でもダーウィンの進化論を間違っている、進化論を突き詰めれば、全ての動物植物は、昆虫からありとあらゆる物が全部アメーバから進化したわけで、その前は、単細胞が発生した地球46億年の発生の昔からの話で、地球も太陽も宇宙の発生も…じゃあその発生前は単なる無なのかと、その全てを俺は信じなかったわけで、それは79歳の今まで続いているのだ。

そうすると、この頃やっと、ダーウィンの進化論を否定する学者が現れたわけで、66年振りに、やっと俺の味方が現れたわけで、やっと俺の悔しかった思いも解放されたわけだ。



ま、小学校に入学して、先生の理不尽な指示命令に反発して登校拒否して以来、学者の全ての研究や理論学説、学問研究も、全て退化のもとだと思ってやらなかった俺の、兎に角自然を愛し、あるがままの全てを愛する気持ちだけが重要で、大切なんだと思って生きてきたわけで、最初の結婚では、兎に角自由に生きているだけで、何もやらない、ただ明るいだけで一切何もせず、1円も稼ごうともしない俺と知って、結婚1ヵ月目で離婚してくれと頼むので、仕方がないから稼ぐことにして、当時たいしたことはなかった沖縄宮古島で、物を売って稼ぐには、人を集める方法を考えた方が勝ちだと考えて、兎に角人を集める為の工夫を沖縄一特化したのが、そもそもサンエーをちっぽけな年商5,000万円の衣料品店から、わずか5年で沖縄一の企業にしたわけで、ま、一番最初にやったのは、沖縄の本土復帰の年の数ヶ月前に、沖縄ではまだ、”いらっしゃいませ”、も、”ありがとうございます”、も、まるで言わなくて、まるで売ってやるぐらいの感覚だった、店のお客様への対応を、初めて感謝の気持ちを込めて、明るく笑顔で、”いらっしゃいませ”、と呼び込み、迎え入れる変な店が国際通りの安里の角にあると評判になったのが、そもそも俺が2週間ほど、毎日1日中監督し訓練して、兎に角、足音がしたらすぐに明るく、”いらっしゃいませ”、と言えと、振り向き様のいらっしゃいませを、朝から晩まで1日中特訓して、従業員が全員明るい笑顔で、”いらっしゃいませ”、とか、”ありがとうございます”、と叫びもあっている変な店というのが、沖縄の客へ感謝を込めて、”ありがとうございました”、と笑顔で言う店の始まりが、サンエーだったわけだ。



その復帰の年まで、沖縄には、”いらっしゃいませ”、と客を迎える店もなく、”ありがとうございました”、と客に感謝する店もなかったわけで、少々お待ちくださいませとか、兎に角、客に親切に感謝を込める感覚を、沖縄に初めて特訓したのが、俺がサンエーの売り上げる工夫をした第一号で、それから徐々に、沖縄は沖縄から沖縄県になり、県民全てが徐々に変わり、何年も経って、初めて真の人間に生まれ変わったわけだ。



ま、そもそも先生は全て教科書や校則を金科玉条として、教えてやると指示命令するわけで、教えてやると言う感覚しかなかったわけで。兎に角先生は偉いんだと言うのを全く信じないガキの俺は、小学校では学年1位、中学と高校では学年2位だったが、先生を信用しない俺は、先生からの信頼はまるでなく、いつも1学期の級長には選ばれたが、全く先生にも学校にも協力的ではなかったわけで、信頼はほぼゼロの生徒だったわけで、ただ記憶力は抜群で、1回聞いたら全てを記憶したわけで、だから勉強はしなくても成績はものすごく優秀だったが、そもそも成績を度外視する生き方だったわけで、兎に角ヒンジムンの不良だったわけだ。



おかげで大人になってからもチンピラ、ハングレ、ヤクザからは仲間とよく思われたわけで、よく親しく挨拶し、接してきて厄介な目にも何度もあっているわけだ。

ま、脳出血でダウンして以来は1度も店には出ていないわけで、明るく接するのはアルクラのみんなと、後は根間保と石田の研ちゃんだけと言うわけだ。

そして今じゃあサンエーを沖縄一の大企業にした男が俺、中山誠だと知っている人間はいなくて、折田節子、和子、富子,譲治も信じていないわけで、結局、折田喜作がまるで沖縄一の企業、サンエーの創業者だと威張っているが、そもそも城辺の長間の貧乏青年をゼロから育ててあげたのが、俺の父の中山勇吉と母の光子で、次に俺がサンエーを沖縄一の企業にしたわけで、折田喜作は俺たち中山親子2代の産物と言うわけだ。



だから折田喜作の真理の追求と言う本には、中山勇吉と光子のへの感謝も、俺への感謝も一切なくて、ほとほと呆れたわけで、一行でも俺たち親子への感謝の言葉があれば、昔の恨みなんか一切忘れて言わなくてもいいが、まるでサンエーは自分が作り上げたとの自慢話が真理の追求と言うわけで、チャンチャラおかしいと、笑わせるんじゃないぜと言う話だ。

あの卑怯なずるさに溢れた笑顔に、中山勇吉も光子も俺も騙された単純なアホの話でもあるわけだ。

せめてもの今は、”愛と感謝”、が、海鮮酒家中山(ちゅうざん)グループのモットーと言うわけだ。



ま、中学生時代のダーウィンの進化論を否定する俺と先生との大議論も、やがて正しかったのは、世界中の全ての学者よりも、ヒンジムンの不良中学生の俺が正しかったと言う話になるかも知れないわけで、教科書も大体仮説の多いわけで、そのまま、その通りとなるのは数学と科学の話ぐらいなわけだが、それさえも、俺は生きていくのには大して役に立たないと思っているわけだ。

兎に角、人間生まれたのは、学問の前に、いかに幸せになるかってことだ。

じゃあな。



2025年3月1日



人生波乱万丈!73歳脳出血後遺症と共に歩む中山誠氏の思い出話が面白い。
中山誠の思い出 memories
中山誠氏の思い出話しが面白い。本当に、相当面白いのだ。これだけの波乱万丈な人生を送ることができる人が、いったいどれだけいるのだろうか?そしてこの物語(思い出)には、戦後沖縄の歩んで来た歴史の中で起こる様々な出来事ともとても関連が深い。現代の沖縄史といっても過言ではないのか…



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