想像の世界(71) もっとも今は年商2000億円近いサンエーの会長だから、もっとどーんと包むかもね。

ま~ちゃん

2019年06月15日 07:00







子供の事などを考えると、どうしてもなぜ僕たちは離れ離れにならざるを得なかったのか、その原因について話しておかなければならなくなる。

しかし、まずサンエーの事や折田商店ができたときの話や、そもそも折田喜作夫婦が商売を始めたのか、何故かまたなんで城辺の長間の片田舎から、平良、ピサラの西里通り、市場通り、下里通り、と言う目抜き通りに、店を出すと言うのは資金、信用含め、そう簡単ではなかったと言う戦後のどさくさで、それはやはり中山勇吉と言う陸軍少佐の力は、僕たちの想像はるかに越えていたと言うことだ。

世が世ならと言うことがよく言われるが、まさに世が敗戦と言う辛い時代を迎えなければ、中山勇吉の力はまだまだ巨大になり、宮中を4期連続特待生と言う、始まって以来の天才どころではない怪物として、折田喜作は会うことすらできなかったのだ。



だから常に、自分は中山勇吉に可愛がられているんだと言うことが自慢で、その妻の光姉さんにも可愛がられていると、いつも自分は中山でお母さんの料理が1番好きだったと言い、実際僕の母がいなくても中山に来ると勝手に自分でよそっておいしそうに食べていたのを何度か僕も見たもんだ。

だから僕としても、ごくごく親しい折田のおじさんとして、小さい頃から接してきたわけで、これはしかも実家である中山に小学校3年生の時に戻ってくる前に、ハツおばさんが時々道で、”あれ喜作、元気ね”、などと声をかけることもあり、なんとなく、”ふーん、喜作と言うおじさんは親しい人なんだ”、と覚えていたわけだ。

だから、ある日突然折田喜作が父の悪口を延々と言い出したときには最初はポカンとするぐらいにあっけに取られ、その後はどんどん怒りえと変わっていったのは、今でもつくづくと思い出すのだ。



では、逆に折田喜作がどんどんサンエーは大きくなったのに、何故僕を疎んじるようになったかだ。

それはおそらく、僕には常に自分を一目置く存在として立てて欲しかったのじゃないかなと今は思うのだ。

僕は確かに常に立ててはいて、1度として反対はしなかったのだが、今思えば尊重も尊敬もしていなかったなーと思い、やはりもっと本気で優しく接するべきだったなぁとは思う。

僕にしてみれば、やはり当時はあまり優秀とは思えない折田のおじさんで、現にサンワホテルの土地の購入や、サンエーの女子従業員の教育もできなくて、全部僕が指導したわけで、その後も実際サンエーを伸ばすにあたっても、仕入れも全て僕と澄のお母さんでやり、サンエーも折田百貨店も、澄母さんで持っていたんだとしか僕は思えなくて、確かに折田喜作の夢があるからこそ折田はできたけど、それも僕の両親と澄さんの協力が大きいと思うし、喜作にあったのは、彼の夢と夢を語る熱意や弁舌だったと思うのだ。



そして僕は彼の熱意に答えてあげようと、売り上げ増への協力と店舗展開を始めたわけで、常に彼の反対を押し切り売り上げを拡大していったのが、そもそもの間違いの始まりだったのだ。

ツッカケサンダル、ランニングから、それを直すきっかけを作り大社長にまで押し上げてきたが、彼はどうも僕が心の奥では馬鹿にしていると思っていたのではないかな。

そして僕は馬鹿にはしていなかったつもりだが、ちょいちょいうんざりすることもあり、あまり尊敬もしていなかったなぁと思う。

その中でも、全く彼を恐れもしないのがまた彼にしてみればちょっとシャクでもあったかもしれない。

多分、今では大社長と皆1目も2目も置いて恐れもするのに、誠は常務としてサンエーを全部仕切っていると、社長の自分に一目も二目も置いて欲しかったのではないかなと、今は想像しちょっとかわいそうな気もするのだ。

と言って、彼がした数々の裏切りはやはり許すことはできない。



こうして何度かサンエーのこと、折田喜作のことを述べてきたが、述べるたびに少しずつ皆にも真実が見えてきたのではないかな。

折田喜作と僕の歴史も、そもそもの馴れ初めから、だんだんと単なる社長と社員と言う、そんな仲ではなかったのもよくわかったと思う。

だから節子が我が家に来た初日の、あの日から離婚に至る日までがたったの9年間だったのが、今更ながら貴重な9年間だったとも思えるのだ。

子供まで3人も作った貴重な9年間で、節子は今も典久では苦労を続けているし、公仁でも苦労していると想像しているわけだ。

だから、やはり幸せとは売り上げでも金もでもないのが、つくづくと思う訳でもあるのだ。

僕たちは宮古島で楽しく暮らしておればよかったわけで、中山誠はせいぜい宮古島でパイナガマに通い、アフリカや南米やタヒチの空に空想を飛ばしてのほほんと優しい父親をしておけば、幸せな家族を続けていたかもしれないのだ。



なまじ折田百貨店と言う衣料品店の、売り上げ増を節子の夢のために計り、ついでに折田喜作の夢の年商10億円に協力するかと多店舗化を、しかも折田喜作の、まだ和子も富子も夫をもらう前だから見る人がいないと大反対するのを押し切り、店長は倉庫番をしている若者でいいと、実際彼をサンエーで上地晢誠に次ぐ2番目の店長として店をオープンし、その後の店舗展開も最後のコザ店以前は、すべて大反対で、今でも本当にうんざりの連続だったのを思い出す。

そしていつも俺の決断は正しかったと、開店のテープカット前は人で溢れかえる店頭を見ながら叫んだ一言が、今も耳に響くように蘇る。

僕など身内ながらうんざりして、もうこれだけサンエーも大きくなったからいいだろうとやめたわけで、人からすれば贅沢な決断だからずっと我慢を続け、とうとう我慢しきれず専務でサンエーをやめた北野晢ももう死んでいないし、折田喜作が死ぬまで常に尽くし続け、折田喜作が死んだ後は社長にまで上り詰めた上地晢誠は、よく我慢したもんだと思う。

折田ジョージは、多分富子の人生のために己を捨て我慢できたんだろうと想像するしかない。



僕が会った宮里ジョージは背の高い好青年で、あの臆病な富子と結婚をして、国建計画事務所の一級土木建築しとして守っていく覚悟だったと思うんだ。

それが多分折田喜作に何度かせがまれて、サンエーに養子として入社したのだろう。

果たしてそれが正解だったかどうかは彼しか分からないことだ。

そもそも僕には、”土木計画士になるのが僕の夢だったので、サンエーには入りません”、と言っていたので、たまに彼を思い出す時は、その時のことが浮かぶわけで、本当に彼が幸せなのはその方じゃないのかなと今も思うのだ。

いつか2人きりになるチャンスがあれば聞いてみたいもんだが、彼が会いに来ない限り不可能な夢だな。

ま、その時はジョージと富子の結婚祝い金50万円はせめて利子はいらないから返してくれな。

もっとも今は年商2000億円近いサンエーの会長だから、もっとどーんと包むかもね。

ぜひジョージに誰かこのブログを読むように勧めてくれよ。

さてまたサンエーや、折田のこと、子供のこと、妻のことなどボチボチ書いていくことにしよう。



2019年2月5日


人生波乱万丈!73歳脳出血後遺症と共に歩む中山誠氏の思い出話が面白い。
https://kamosan.ti-da.net/e10459057.html



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