アカンバ・まーちゃん(余談1)余談だが、主に俺の過去の思い出の中で逝きし人を中心に思い出として書いてみる事にする。


アカンバ・まーちゃん(余談1)余談だが、主に俺の過去の思い出の中で逝きし人を中心に思い出として書いてみる事にする。



余談だが、主に俺の過去の思い出の中で逝きし人を中心に思い出として書いてみる事にする。

まずは折田喜作、つまりサンエーの創業者の思い出だが、いっぱいあるのでボチボチ書いてみるが、そもそも商売を始めたのは全く面識もない俺の父、中山勇吉を頼って城辺町の長間と言う片田舎から歩いて平良市、ピサラの街に出てきた事がスタートだ。

無一文で中山勇吉を頼って来たのだから、商売のスタートも父、一年後の折田商店を作った資金も俺の父が、当時ピサラの街の模合、頼母子講(たのもし‐こう)にも俺の父が保証人になって商売を開店する資金を作ってやり商品も揃えてやったんだから、いわば俺と父勇吉は、父が商売をスタートさせ、俺がサンエーを大きくして沖縄一にした、つまり親子二代の大恩人ってわけだ。

エヘン!!



ま、当然折田喜作と澄も頑張っては来たし、娘で長女の節子も折田百貨店と言う名の大きな衣料品店を受け継いで頑張っていたわけで、そこに俺は恩人の息子として婿として迎えられたわけで、昔からの旧知の仲の折田のおじさんは、”誠、頼みがある、結婚したら遊んでていいから、小遣いは節子からもらって宮古に一年行ってくれんか、その間に折田百貨店は和子か誰かに見せるようにするから”、と言うので、俺は、”じゃあ栄良兄さんにサイパン行きは一年後にするように頼んでみる”、と言って、結婚後は宮古島に来たわけだ。

ま、遊んでていいと言われて来たので、毎日朝から晩まで、今日は誰と遊ぶかなーと、もう遊ぶ事だけ考えて、それはそれは朝ごはんを食べ終わったら遊び、昼ごはんを食べては遊び、晩御飯を食べたら飲みに出かけ、毎晩酔っ払っていいご機嫌で12時まで遊び、そうしたら結婚一ヵ月で節子に、”誠さんお願いだから離婚してちょうだい”、と頼まれ、俺はびっくりして何でと聞くと、”私は誠さんが気狂いとは知らなかったと”、言うのだ。



それで色々話し合った結果、俺も商売の加勢をすれば離婚をしないと言うので、要するにお金を儲ければいいのだなと分かり、じゃあちょっと稼いでみるかと、要は人が集まれば金は集まると考え、まず毎週新聞広告で次々と新しい企画を考えて、何々セール、何々祭り、何々フェア、それはもう考えられる全てを人集めに使ったのだ。

屋外演奏なんてない時代にトラック二台の荷台をステージにして、ぼちぼちバンドを始めていた若者や、民謡の出来るおじさん、おばさんによる演奏会をやったり、つまりあの手この手をじゃんじゃん考え出し、宮古島で初めて花いっぱい運動をして各小学校、中学校、高校に、沖縄本島から取り寄せたコンテナいっぱいの花木類をプレゼントしたり、もう何でもかんでも発案し即実行していたわけだ。



すぐに一年目で宮古島No.1の店になり、それからサンエーのチェーン展開を始めたわけだが、全ての店舗は折田喜作の猛反対の中で行われたが全て大成功で、とうとう俺はサンエーを6年間で年商5,000万円の小っぽけな衣料品店から、沖縄一の巨大スーパーチェーンに育てたが、特に食料品を全て揃える事で回転差利益を利用してのチェーン展開を開始したのが、ま、サンエーの全琉制覇の秘訣ってわけだ。

回転差利益なんていうのは、俺はシアーズ・ローバックやその他のアメリカのスーパー理論を書いた本を熟読し、沖縄では俺が初めて考え実行し実現したスーパー理論ってわけで、要は沖縄一にするのは、誰も考えない事を考え、誰も実行しない事を実行し、誰も実現しない事を実現したわけで、つまりこれは俺が全てやった事で、ただ俺が知っている折田のおじさんは、俺を大恩人の息子として婿に迎えただけで、いわば嫁の節子の父であり、サンエー創業者にしただけの話だ。



ま、それなりに商売にも頑張っては来たが、商売の全てに新理論で、全てを新企画で沖縄一に育てたのは、まごう事なき俺、中山誠ってわけで、ま、折田喜作は名は創業者で、サンエーの歴史からは俺の名は消されているが、いわばサンエーを作り育てたのは俺で、本来ならサンエー創業者は中山誠の方が筋は通っている話なんだ。

その次にサンエーに最も貢献したのは折田澄、つまり折田喜作の妻で節子の母って事になるな。

衣料品の仕入れでは俺の先生ってわけで、俺はまず紳士物の仕入れを学び、次々と全ての衣料品の仕入れを学んだわけで、これには大いに澄の仕入れの目のつけどころが生かされているが、俺は細かい点では参考にしたが、その後のチェーン展開ではそんなチマチマしたやり方では仕入れは間に合わず、新しい発想での仕入れが必要だったのだ。



その後、節子の妹の和子も婦人服の仕入れで加わり、更にその後、大阪事務所として北野哲が加わったが、サンエー躍進の第二の理由は澄や喜作ではなく、俺の次は北野哲だな。

ま、社長折田喜作、専務折田澄、常務中山誠、部長北野哲として沖縄県の業界No.1に君臨するようになったが、実質はNo.1は中山誠で、No.2が北野哲だったのが本来のサンエーの姿で、北野は俺がサンエーを辞めた後はしばらくして常務になり、実質サンエーを仕切るようになり、次に専務になり、その後20年ほどサンエーで頑張ったが、遂に折田喜作の逆鱗に触れてサンエーを去る事になったと言うわけだ。

ま、北野も亡くなった。

60半ばと言う若い死亡で本当に残念だ。



余談としてサンエーについて、まずサンエーの成り立ちを書くつもりで折田喜作から書こうと思ったわけだが、やはりサンエーは俺が作り上げたわけだが、中興の祖は北野哲だな。

その後が、ま、現在社長をしている上地哲誠で、図らずも哲誠は、北野哲と中山誠の二人の名前を持っているわけだ。

どうだ哲誠、幸せもんが。



折田譲治は、元は福里譲治で入り婿で、改姓して折田たになったわけで、俺は福里のまま富子と一級土木建設設計師として生きた方が今以上に幸せだったのにとは思っているわけだ。

哲誠は一度はサンエーをクビになり、折田喜作の逆鱗に触れたので、その後は完全なる折田喜作のイエスマンとして今に至るわけで、ま、今は年商2,000億円の大社長だからそれなりに幸せだろう。

余談の第一回は、ま、こんなところだ。

じゃあな。



2022年1月10日



人生波乱万丈!73歳脳出血後遺症と共に歩む中山誠氏の思い出話が面白い。
中山誠の思い出 memories
中山誠氏の思い出話しが面白い。本当に、相当面白いのだ。これだけの波乱万丈な人生を送ることができる人が、いったいどれだけいるのだろうか?そしてこの物語(思い出)には、戦後沖縄の歩んで来た歴史の中で起こる様々な出来事ともとても関連が深い。現代の沖縄史といっても過言ではないのか…



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