アカンバ・まーちゃん(余談14)
株式会社サンエーを作ったのは確かに折田喜作なので、創業者折田喜作と言うのは正しい。
そして上地哲誠が二代目社長となり、折田譲治が会長になったのも、ま、しょうがない事ではある。
だが、そもそも折田喜作が、長女の節子を連れて我が家を訪れたのは、俺が26歳の4月頃だった。
我が家の玄関が朝からガラッと開き、”こんにちは”、と声がするので俺がパンツ一本で出てみると折田のおじさんが立っていた。
”アレ、折田のおじさんどうしたんだ”、と聞くと、折田のおじさんの脇から若い女の子がニコニコして、”おはようございます”、と言うではないか。
流石に俺もびっくりして慌てて部屋に戻り、ズボンを履いて応接間に戻ると、折田喜作が、”誠、今日は節子をよろしくな”、何て言うんだ。
何でも明日はちょっと東京に出かけるので、面倒を見てくれと言うんだ。
実は、俺は昨日親友が会いたいと言うから帰ったばかりだったが、それ以外に用事もないので、”いいよ”、と答え、隣の部屋で出勤の準備中の親父に、”父ちゃん、折田のおじさんが、節ちゃんの面倒みてくれってさー”、と言うと、”オウそうか”、と父ちゃんは俺に5$くれたのだ。
ま、今なら5,000円以上の大金で、当時一日遊ぶには充分の資金が出来、俺はご機嫌で一日節ちゃんとボーリングをしたり昼飯を送ったり、夜まで遊んだわけだ。
つまり、これは俺と説ちゃんのお見合いだったわけだ。
こうして、しばらくすると東京への旅から戻った説ちゃんが、”ハイ、お土産”、と言ってきれいなハンカチセットをくれたが、それにはきれいなMNという洒落たたデザイン文字の刺繍があり、”私が作ったの”、と言うのだ。
つまり、俺中山誠の名前のイニシャルを節ちゃんが作ったと言うのだ。
ま、これには俺もびっくりして、”父ちゃん見てみろカッコいいだろ”、とちょっとはしゃいだものだ。
その日もまた父ちゃんは5$くれたので、節ちゃんと一日は遊んだわけだ。
節ちゃんは頭の切り替えが異常に早い女の子で、ま、俺が付き合った女の子にはいないタイプで、とても明るい面白い子だが、俺が付き合った中では、ま、一応一番ブスではあったな。
それから間もなくして父ちゃんが、俺に、”マァー、節ちゃんを嫁にもらわんか”、と言うのだ。
俺はしばらく考えて、”俺、栄良兄さんとサイパンに行く予定なんだ”、と言うと、あんなとこ女の子は黒い土人しかいないし、もし手をつけたらお前殺されるから、節ちゃんを連れて行けばいいよ”、と言うんだ。
うーん、成る程と思ったもんだから、”じゃあ、いいよ、節ちゃんを嫁にもらうさ”、と言って那覇市安里の国際通りの隅っこにあったサンエーに行き、折田のおじさんに、”折田のおじさん、節ちゃんを嫁に欲しいけど、どう思う”、と聞くと、折田のおじさんは大喜びで、”そうか、じゃあ結婚式の準備をしなきゃな”、と大喜びだ。
そもそも、俺とサンエーの関わりはこうして始まったわけだ。
2022年6月18日
人生波乱万丈!73歳脳出血後遺症と共に歩む中山誠氏の思い出話が面白い。
中山誠氏の思い出話しが面白い。本当に、相当面白いのだ。これだけの波乱万丈な人生を送ることができる人が、いったいどれだけいるのだろうか?そしてこの物語(思い出)には、戦後沖縄の歩んで来た歴史の中で起こる様々な出来事ともとても関連が深い。現代の沖縄史といっても過言ではないのか…