天皇のことを英語の天皇のことで、祭祀王と言い、日本語での象徴天皇の、伝統的な役割のことらしいと昨夜初めて知った。
だから石原慎太郎は、政界を去る最後の演舌で、安倍晋三首相に、”靖国神社に首相が祈りを捧げに行かなくてもいいが、天皇に行けるようにして欲しい”、とお願いしていたが、それは叶わなかったし、その後、安倍晋三は暗殺されたが、真犯人を探そうともしない日本政府と警察には、俺は心底ガッカリして、それ以来、その後の日本の首相をはじめ、官僚も、国会議員や、警察への信頼が、ほぼなくなったのだ。
そして石原慎太郎が最後の演舌で、若き夫を特攻隊で亡くした妻の、最後に残した歌として、”かくまでも、醜き国になりたれば、捧げし人の、ただ惜しまる”、と読み上げていたのを、俺は、俺の父の、生き残った当時の宮古島での一番偉かった中山勇吉陸軍少佐のことを思い出していたのだった。
そして父が生き残ったことで俺は今生きているわけで、ただ、宮古島一の天才中山勇吉と、宮古島一の美女だった母光子の次男坊として生まれ、一番父に似ていた男が、とんでもないボーチラーの不良で、毎日いちいち何度も母に叱られていたわけで、兄弟たちはそう叱られなかったし、妹もそう叱られていなかったのに、なまじ父の幼い頃を思い出させる俺が、母は悔しくてしょうがなかったのだろう。
ちなみに俺のことを天才と思ってくれた同級生の女の子も一人いたようなので、馬鹿と思ったのは母一人だったわけで、平一小学校一のボーチラーで、まるで勉強なんかしたことはないが、それでも学年一の成績だったので、馬鹿ではなかったことは信じてくれ。
ただ母には、この不良が悔しくてしょうがなかったのだろう。
小学3年生の時、級長をさせられている俺を優秀な子供と思ったのか、当時琉球石油の宮古島支店長で、宮古島でも有数の富豪だった平良雄良の妻で、那覇市小禄の大富豪の娘だった敏子おばさんも、その後は俺が頼りにならないと思ったようで、鉄彦の友達のことを書き残したのは真栄城忠之ただ一人で、中山誠のことは触れてもいないのは、残念には思ったものだった。
かくまでも、醜き国になりたる日本”、のプリースト・キング、象徴天皇の妻の雅子は、皇后として毎日をけなげに生きているなーとつくづく思うし、だから、その子の愛子内親王も、俺は日本一のブスカワな美女だといつも嬉しく眺めているわけだ。
決してブスと思ったことなどは一度もない、常に可愛いと思って見ているわけだ。
ただ、単純には美人とは言いがたい思いで、雅子皇后は常に美女と思っていて、俺の母、光子も美女だったし、兄も美男子だしだったし、弟たちも、それなりに美男子だったが、俺は、うーん…
ただ、自分では若い頃は沖縄県で2番目にカッコイイ男子とは思ってはいた。
残念ながら、美男子と思ったことは生まれて一度もない。
小禄栄子は、”まーちゃんも受験勉強しなさい”、と言って俺の恋人にはならなかったし、兼島とも子は、”まーちゃんの14番目の恋人にはなりたくない”、と俺をフったわけで、せめてその頃、瀬名波よう子が、俺のことを天才の美男子と思っていると知っていたら、喜んで恋人になったのに、50歳を越える頃では83kgのデブで、”エッ、あの美男子の天才のまーちゃんなの”、と、俺を蔑んで見ていた時は、本当に残念だったものだ。
おかげで俺は、その後一応痩せる努力はしていたもので、今は71〜72kgまでは痩せたが、高校3年生の55kgには程遠く、せめて老年の俺は65歳が理想体重だと決めてはいるものの、あと6〜7kgが、とても困難な道のりと言うわけだ。
それにつけても、加持さんはスマートでいいなと、いつも羨ましく思っていることを、申し添えておこう。
じゃあな。
2025年4月16日
人生波乱万丈!73歳脳出血後遺症と共に歩む中山誠氏の思い出話が面白い。
中山誠氏の思い出話しが面白い。本当に、相当面白いのだ。これだけの波乱万丈な人生を送ることができる人が、いったいどれだけいるのだろうか?そしてこの物語(思い出)には、戦後沖縄の歩んで来た歴史の中で起こる様々な出来事ともとても関連が深い。現代の沖縄史といっても過言ではないのか…