Memories 28
思い出(28)-3/4
さて、この僕の若い頃の物語はここで終わればめでたしめでたしなんだ。
折田喜作の一生の夢だった年商10億円は、サンエーの年商7,000万円、折田百貨店の年商8,000万円から、一気にサンエー10数億円、服はオリタ年商3億円にわずか3年間でなってしまった。
当時の沖縄も祖国復帰からわずかに3年で、山形屋年商50億円、リウボウ年商40億円、三越年商30億円で、サンエーは一気に沖縄第4位に躍り出たわけだ。
だから宮古を僕と節子で楽しく見て、那覇のサンエーは折田喜作と妻の澄子が見て、コザ店を次女の和子、浦添店を3女の富子が見ればめでたしめでたしの楽しい一族揃い踏みで良かったのだ。
ただ問題も生じていたのだ。
商品の仕入れだ。
主に義理の母の澄子がやり、僕が男物と時々女物の若い世代ものをやっていた。
しかし各店での値入れが困難になり、折田社長はコザに配送センターをかなりの規模で作ったのだ。
それで僕達一家は那覇に引っ越し、折田社長夫妻に協力することになった。
逆に言えば、大金持ちから月給取りになったものでもあったが、もともと金には興味がなかったら高給もピンとこなかった。
当初しばらくは出来て間もない配送センターを管理しながらの仕事で、結構面白かった。
おばちゃんと若い女の子が3〜4人いて、ものすごい量の衣料品に値入れをしていくのが大変だった。
そして間も無く僕は、株式会社サンエーの常務取締役になった。
勿論社長は折田喜作で、専務が澄子母さんだった。
そして折田喜作のもうひとつの夢だったホテルサンワもやがて完成した。
海洋博に合わせてオープンしたのだ。
僕は常務としてホテルにもちょいちょい顔を出して仕切っていたのだが、できるだけ支配人の立場を考慮した。
支配人はいい奴で、僕よりはかなり上の40代だったが、ホテルはほとんど素人だったのだ。
オープンの時、大阪の丸光(株)の社長が、”誠君、蛇口をひねったら、ちょっと油っぽい水が出たよ”、と言うのだ。
それですぐ調べたら、すべての蛇口を開口しないとやばいと分かったので、支配人に説明し、5分以上すべての蛇口の水を流すことにした。
幸い丸光の社長は最初の客で、これから続々招待客が内地から入る予定だった。
それで僕は、毎日のチェック予定表を作り支配人に渡し、これを後で社長に見せなさいと言った。
後で社長がそのチェックリストを僕に見せ、”誠、支配人は素人だがたいしたもんだ、これを見ろ”、と自慢していた。
それから1ヶ月ぐらいしてホテルサンワで支配人が、”常務、昼のランチタイムに客がいなくて困っているけど”、と言うので、レストランのコック長を読んで訊いてみると、”観光で来た客は、モーニングと夜はいいとして昼は誰もいないもんね”、と言うのだ。
それで、”ランチメニューを1週間分作れ”、と言うと、中々気の利いたメニューをリーズナブルな値段で作ってきたので、それを女の子にノートの半分ぐらいのサイズで可愛く30〜40枚作らせて、可愛いしおり付きで徒歩10分以内の会社に全部配るように支配人に指示した。
サァ、翌日から大変だ。
翌日は客が来過ぎてメニューも打ち止めとなり、翌々日からは約倍増で、1階のレストランからロビー、そして地下の会議ホールまでいっぱいの客だ。
恐らくこんなレストランは那覇どころか沖縄中に1軒もなかったんじゃないかな。
またしても折田社長は大喜びで、”誠、うちの支配人はたいしたもんだぞ”、と自慢していたのだ。
まずはめでたしめでたしで、ホテルサンワも大繁盛だった。
場所も那覇商工会議所もすぐ横だし、 RBCも琉球銀行本店もすべてが近くて本当にいい場所だった。