アカンバ・まーちゃん(余談2)北野哲も亡くなった、折田喜作も澄も亡くなった。

アカンバ・まーちゃん(余談2)北野哲も亡くなった、折田喜作も澄も亡くなった。



俺がサンエーを独立してからもう44年、間もなく45年になるが、その後のサンエーの発展は目覚ましく、今や年商2,000億円で全琉一、つまり沖縄一の大企業と言うわけだが、要は沖縄一になった時点で既に巨大企業になったわけで、それ迄はほぼ俺一人の発想で巨大化していったわけで、しかもそのサンエーの一番大切な柱を衣料品から食料品にして、食料雑貨と、衣料品、ファッションを中心として、その後は次々と新しいものを加えていったわけで、しかも三越、山形屋、リウボウを抜き去った後はもう邪魔するものはない自由な空間が広がっていただけで、現に俺は独立して2年間で30億円企業を育てあげたわけで、俺が独立した後のサンエーでは、折角沖縄にはもう邪魔するものはいなかったのに、折田社長の初めての決断による店舗は大失敗で一年で閉店し、結局俺の独立後は自然増だけで沖縄一を維持していたわけだ。



こうして俺のいなくなったサンエーは、しばらくは折田喜作のいわゆる俺の判断、俺の決断は間違っていないとの言い分のまま進んでいくが、徐々に北野の意見が取り入れられ、北野はやがて常務へ格上げとなり上地は部長、次に北野は専務となり上地は常務、次々と新店舗と新しいテナントの店が加わり更に巨大化が続いたわけで、やっとカネヒデが出来、イオンがやって来たが、結局みんな食料品の争奪戦で、もし俺が折田喜作の猛反対を押し切って沖縄一の食品販売に仕立て上げなかったら、サンエーは今頃潰れていただろう。

つまり一番回転差利益を出せるのは唯一食用品で、服も雑貨も電化製品も全て重要ではあるが、最も大事なものは三度の食事で、最低一日一度は腹を満たす必要があり、この食品を大き幹として、その他は全て枝であり葉であり花で、そしてそこから生まれる純利益が実ってわけだ。



ま、俺がいなくなってからも、沖縄にはしばらくは内地資本による流通業は三越も山形屋もその後の発展はなくなり、かろうじてリウボウだけが那覇市で頑張っていたが、数年も遅れて食品専門のスーパーとしてカネヒデが出現したが、食品を大きな幹とする全ての分野を網羅したサンエーは圧倒的強さで、その後に参加した優秀な人材にも恵まれ、北野は彼等と共に知恵を寄せあってサンエーの組織を強化したわけで、ま、彼等スタッフを纏め上げた北野の努力は充分評価されていいのだ。

ま、何よりもサンエーの祖である俺、中山誠の存在そのものを消した事でサンエーの歴史は間違っており、つまりサンエーの歴史は俺が全てってわけで、ま、譲治も哲誠も後は大きな流れに乗っておれば良かっただけだ。



さて、あれから45年を迎えるわけで、俺がいなくても無事に全てのスタッフが頑張っては来たが、世の中コロナの後は激変するだろう。

鬼が出るか蛇が出るか、さて次の楽しみは何だろう。

俺は風雲急を告げる今の世の移ろいを、目を凝らして見つめ、眺めるとしよう。



北野哲も亡くなった、折田喜作も澄も亡くなった。

一番サンエーを知る、サンエーを世に出し育て上げた俺は生きている。

つまり折田譲治よりも上地哲誠よりも、折田の三人娘、節子、和子、富子がかろうじて俺が育て上げたサンエーの片鱗を知っているわけだ。

それがつまりサンエーの歴史ってわけだ。

その中心は当然俺、中山誠と言うわけだ。



北野哲はサンエーの専務にまで昇り詰めたわけで、本来なら折田喜作の、”俺の決断”、なんちゃって社長の亡き後は当然サンエー代表取締役社長、北野哲となるべき男ではあったが、何せ北野は折田喜作によりサンエーをクビのさせられたわけだ。

こうしてサンエー会長は折田譲治となり、社長が上地哲誠がなって年商2,000億円を守っているが、さていつまで続くかな。

見守るとしよう。



2022年1月11日



人生波乱万丈!73歳脳出血後遺症と共に歩む中山誠氏の思い出話が面白い。
中山誠の思い出 memories
中山誠氏の思い出話しが面白い。本当に、相当面白いのだ。これだけの波乱万丈な人生を送ることができる人が、いったいどれだけいるのだろうか?そしてこの物語(思い出)には、戦後沖縄の歩んで来た歴史の中で起こる様々な出来事ともとても関連が深い。現代の沖縄史といっても過言ではないのか…



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