想像の世界(1972)パーフェクトストームという言葉が、目が覚めるとずっと浮かんでいた。


想像の世界(1972)パーフェクトストームという言葉が、目が覚めるとずっと浮かんでいた。



パーフェクトストームという言葉が、目が覚めるとずっと浮かんでいた。

それ以外は何も思い出せず、ただパーフェクトストームという言葉、思いだけが頭の中で渦巻いていた。

幼い頃に風速79mの台風で測候所の風速計が破壊され、それ以上の風速は測れなかったことがあったが、これなどはパーフェクトストームに入るのではないかな。

それ以外にも風速60mを越える台風は毎年宮古島を襲っていたので、宮古島は台風銀座と言われたものだが、近年はほとんど大きな台風らしい台風はなく、せいぜい強風が吹くだけだ。



今年は津波警報は2度あって俺も避難させられて、俺と直美はすぐ隣にある平良の市街地のちょっと高い場所で3時間以上も待機したが、何も起こらず家に帰ったわけだ。

これは取り敢えず台風警報ではなく津波警報だったが、水位は海面が30cm隆起した程度だったが、30cmなんてよく吹く大風の波ではしょっ中見られる波に過ぎず、海面の隆起を測る程の隆起とも言えず、さて津波はどこへ行ったのだろうか。



フィリピンでも台湾でも大きな被害がなかったが、何故か中国、支那では何度も見られたわけだ。

つまり、今や台風銀座は中国、支那のことになるわけだ。

ところで中国、支那では20階建て、30階建てのビルが売れずに住む人もいなくて、そういうゴーストタウンが全土に広がってあるようだが、反面、職を失った人は何百万人もいるらしくて、飯も食えない女性や子供も無数にいるようで、これは多分フェイクニュースではない本当のことではないかなーと思っているのだ。



俺も何度も騙されて職も失い、ド貧乏も何度も経験しているが、幸い飯を食えなかったことはなく、いつもケラケラ笑って過ごしてきて、すぐに新しい仕事にもあり付いたわけで、ほぼ無一文で宮古島に来てから、頼まれて色々と仕事もこなしてきたし、政治にも関わってきたわけで、一応沖縄県では優秀な一族に属し、父は天才で戦時中は少佐にまで昇り詰めて、宮古島では最高位の役割も務めてきたし、母は宮古島一の美女と言われたもので、姉のハツおばさんも昔は沖縄女子の東大と言われた、女子師範学校の一の才女と言われたわけで、そのハツおばさんに、3〜4歳頃から小学校2年まで育てられた俺も、3〜4歳頃から嘘つきの大人だらけの、その大人の嘘を見抜いていたのは、一応天才の片鱗はちらほら見せていたわけだ。

ま、片鱗は見せてはいたが、俺は一切の努力はやめたので、それでも一応その天才の片鱗はあったようで、高校卒業するまでは常にクラスの級長はさせられていたわけだ。



つまり、それなりにリーダーではあったわけで、なりたくないリーダー、やりたくないリーダーだったわけで、せいぜいリーダーで好きなのは、”新しい学校のリーダーズ”、ぐらいのもので、世の中のリーダーもことごとく詐欺師を見るように眺めてきたので、いわゆるリーダーは絶対やりたくなかったが、妻の節子が結婚1ヵ月目に、何もせずに遊んでばかりいる俺に呆れて離婚してくれと言うので、流石に結婚一ヵ月目での離婚はないなと思ったので、どうしたら離婚しないかと聞くと、商売を加勢してくれたら離婚しなくてもいいと言うので、要は金が儲かればいいわけだと思い、金を儲けるには人を集めて、社会で一番安い価格にすればいいと、当時なかった、隣の空き地での民謡とロックのコンサートを開き、つまり民謡は当時の年配者やお年寄りの為に、ロックは若者の為にやったら、もう馬鹿受けで、宮古島中の人間が集まったかと言う程人は集まり、そして民謡とロックを交互にやるわけで、その間を30分の休憩にして、その30分に、”チャンスタイム、チャンスタイム”、とチャンスタイムを設けて叫びまくったら、これまた馬鹿受けで売れまくって、当時それまで最高の売り上げは30万円だったようだが、320万円あまりり売ったわけだ。



つまり、やれば一応天才の片鱗は見せたわけで、それで取り敢えず年商何千万円の小さな衣料品店のサンエーを、沖縄一の大企業にしたわけだ。

ちなみにサンエーとは、折田喜作が3人の娘の為に3人のエースを迎えたいと付けた店の名前で、その最初のエースに、無一文の折田喜作に商売を教え、資金も協力して育てた、俺の父中山勇吉の次男坊の俺を長女の夫にしたいと父と2人で目論んだわけで、それはうまくいったわけだが、折田喜作は俺がやる多店舗展開には絶対反対だったわけで、年商数千万円の店を3つつくるのが折田喜作の一生の夢だったわけで、それが俺はあれよあれよと言う間に年商何十億円と言う店を沖縄の各地につくり、5年で沖縄一の企業にしたのがサンエーだったわけで、沖縄一の大企業になると、折田喜作が自分でやったと見せかけたくなったわけだ。



無一文の折田喜作に商売を仕込んだのは中山勇吉で、サンエーを沖縄一の企業にしたのは、その息子の中山誠なわけで、つまり折田喜作は、中山にはその父と息子の2人から助けられて、いわば全てに恩はあるわけだ。

その恩を仇で返したのが折田喜作で、さてその娘3人のエースになる筆頭の長女の夫は離婚したし、次女も離婚したし、三女の夫だけはかろうじてまだ健在と言うわけだが、その譲治は、俺との約束は一生土木建築の道を進むと言ったのに、サンエーの会長になったのもは、これも裏切りの一種だぞ、折田譲治。



折田譲治は旧姓は福里で、結局裏切り者、折田喜作の姓を改姓して継いだわけだ。

ま、俺はサンエーを沖縄一の大企業にはしたが、裏切られての離婚で、それ以降はもうパーフェクトストームの嵐の中の船のような人生だったわけだが、嵐の中でもケラケラ笑っていた。

台風40mが何だと戦った石原裕次郎に呆れていた俺にとって、風速40mの台風なんてそよ風みたいなもので、79mで風速計をぶち壊す台風を何度も経験している俺は、宮古島のみんなは一緒に笑っているだろうと思ったものだ。



こうして波瀾万丈だと加持さの言う俺の人生は、確かにそこそこその片鱗はありはするが、何せ戦争の実体験はゼロで、低気圧のものすごい波の間の訓練も、何度か海上自衛艦うらなみの艦隊で経験していて、もうパーフェクトストームの経験はいっぱいあるが、波瀾万丈とは命がけの戦争の実体験のことだと思う。

パーフェクトストームはもう来ないだろう、平和な宮古島がいいな。

じゃあな。



2024年12月17日



人生波乱万丈!73歳脳出血後遺症と共に歩む中山誠氏の思い出話が面白い。
中山誠の思い出 memories
中山誠氏の思い出話しが面白い。本当に、相当面白いのだ。これだけの波乱万丈な人生を送ることができる人が、いったいどれだけいるのだろうか?そしてこの物語(思い出)には、戦後沖縄の歩んで来た歴史の中で起こる様々な出来事ともとても関連が深い。現代の沖縄史といっても過言ではないのか…



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