想像の世界(70) 大学まですべてカンニングで通ってきたと言う強者がいて…

想像の世界(70)   大学まですべてカンニングで通ってきたと言う強者がいて…



夜中に目が覚めてうつらうつらしながらも、いろいろなことが浮かんでいた。

例えばアボリジニ、アフリカの一部の種族たちの話で、視力が5.0あると言うが、僕も小さい頃は2.0あったわけだが、さすがに現代人では5.0はあまり聞いたことがない話で、僕の大学の同級生で全く勉強しない。しかも掛け算九九や、漢字もろくにわからないけど、大学まですべてカンニングで通ってきたと言う強者がいて、僕が嘘だろうと言うと、席の2つ前の奴のノートの字を読んで見せたことがあり、そいつは確かに3.0位はあったんじゃないかな。



ちなみに授業中は大学から読み始めたと言う小説に夢中で、1時間に5度位は、”中山これはなんと読むか”、と聞かれたもんだ。

国家試験までカンニングで大丈夫なんて言っていたが、どうなったことやら。



そして、あの文字もない数の感覚もない、年の感覚もない、いわゆる原住民とか野蛮人とか呼ばれる人々の方が、よっぽど幸せだったのになと思うが、文明とかやらが入ってきて、本はあるはラジオ、テレビに、ツイッターやインスタグラムや、わけのわからんネットとかが溢れている文明か、文化か知らない現代社会に巻き込まれて、ジャンクフードを脅威の美食と思って食べるんだろうなと思うと悲しくなる。

でもこれが現実で、悲しがっている暇もないのだろう。

いわば今あれこれ考えている間も、外でのんびり日向ぼっこをして寝ている猫が、お腹がすいたらニャーニャー言って食事を請求して、案外堂々としているのもまた現実で、毎週その餌を買いに行く僕らがご苦労様ってことなんだな。



さてこの日記も何名の方が読んでいるかは知らないが、そもそも日記は人に読ませるものではないが、加持さんがブログにあげてくれて、おかげで僕のリハビリ日記も字の練習に始まり、字を思い出すことや、記憶回復の為にも大いに助けになってきた。

もうノートも80冊を超えたが、1度も中を見たこともなく、書き殴り描き飛ばしてきたので字の練習にはあまりなっていないが、記憶回復には役立ったと思う。

個人的な日記からちょっと進んでブログとしての一面もあり、逆に少しは進歩したのかもしれないとも思う。

どっちにしろ基本は本気で言い、思ったことを書くことだが、幸い人の反応は受けないようにできると加持さんが言い、凄く助かっている。

人の反応があるとどうしても批判する人も当然おり、それに対する受け答えをしなければならず、とても閉口するのだ。

だから善かれ悪しかれ、思ったことを思うままに書いた方が、本音が全部出せるのでいいと思う。

また、書きなぐっている方が格好つけないで済み、小説家でも小説でもないわけで、あくまでも基本は個人的な日記と言うスタンスで書いているわけだ。



突然明日死ぬかもしれないし、いつかは終わるだろうけど、多分ブログならずっと残っているわけで、いつかは子供たちが読む日もあるだろうから、少なくても中山誠と言う父はこんなタイプの男だったのかと言うことがわかり、それなりに自分のルーツとしては多少の参考になるのではないかな。

ま、考えたらそうは言っても公仁も、典久も独身のようで、どうも僕の遺伝子が残るのは裕子の所ぐらいのようだ。

直美との間の子供はいないので、孫も裕子の子しかいないわけだからな。

アメリカでスティーブと言う祖先は、ポルトガルからの移民の子で、明るい男らしいので楽しくやっているだろうし、特にそいつの親たちが裕子をとても可愛がるらしいので、当然孫は大切にされるし言うことない暮らしをしているので、父の僕の事はいつかはこのブログで少しはわかるのではないかと思うわけだ。



裕子は彼女が5歳の時に別れたもんだから思い出は少ないし、ただ1番裕子が独立心がある子である事は、既にその頃から現れてはいた。

特にちびっこスケバン的な、わんぱくと言うか、おてんばな女の子で、いつも目をキラキラさせて1人でバス停を目指して出かける様子が今も目に浮かぶ。

あんな遠くの保育園に1人で通ってくるが、他の子はみんな親が車で送り迎えしており裕子のことを不憫がっていたが、裕子は元気よく帰ってくるとすぐ、近所に子分ども集めにまわっていつの間にかその大将になって命令して遊んでいたのを、今でも昨日のことのように思い出す。

昼間は、お父さん、お父さん、とつきまとうが、夜寝るときは完全なママっ子で、それは無理もない僕との接触はわずかなもので、それは公仁、典久も同じで、それだけに商売や事業なんて子供のためには1文の得にもならないことはもちろんで、あまり規模を拡大するもんじゃないと言うのは絶対間違いないことだ。

最初から宮古島で満足しておれば、多分宮古島No.1の幸せ家族で居られたかもしれないな。



僕も節子も1番好きなBGMはレジスターの音かなんてからかって、よしそれじゃあ一丁やってやるかなんて、3年で売り上げを4倍にして、ついでに折田喜作の夢である、死ぬまでに年商10億円売ってみたいに協力してやるかとサンエーの売り上げ増のあれこれをやってあげたのが、そもそもの間違いの始まりだったわけだ。

つっかけにランニングで、1日の大半を薄暗いサンエーの中の実質1階40坪位の衣料スーパーの奥で、ぽつんと座っていた折田喜作にきちんとシャツも着せて、靴も履かせ、ときにはネクタイまでさせて、株式会社サンエーの社長と仕立て上げたまでは良かったが、そのままでは、とりあえずは格好だけだったが、現に店舗を増やし売り上げを伸ばし、いつの間にか奇跡の店舗となり、そこの大社長になったが、そもそもの間違いの始まりで、やはりいつの世にも大将は1人で、大将以上に目立った存在がいると、やはりそこには妬みやっかみが生まれトラブルのもとになるのは当然だったかもしれない。



公仁、典久、裕子にとっては、どんなおじいちゃんだったかは知らないが、僕は裏切られただけでつまらない男だとしか思っていないから悪しからずだ。

もともと中山勇吉と光子を大恩人として付きまとっており、僕もその子供と言うことで、中山のマーちゃんとして、小学生の頃から折田のおじさんとしてよく知っている中だったわけだ。

もともと小学校の教師だったようだが、それでは食えないと言うことで、平良、つまりピサラに出て、宮中生のよしみで中山先輩を訪ね、1円も使わず商売を全て伝授してくれたのが中山勇吉で、妻の澄と2人で城辺の長間からリヤカーを引いてきて、中山で油を仕入れ、それをピサラと長間で売って少しずつ金を貯め、1年後にピサラで商売がしたいと、また勇吉アザに相談したら、中山勇吉が幹事をしていた平良のムヤイ(模合)のメンバーに入れ、すぐ第1回の入札なしで資金を作り、平良市の下里通りに店をオープンしたのが、そもそもの折田商店、つまりサンエーの始まりだ。



つまり、スタートは何から何まで中山勇吉と光子の世話になっていた事は、折田喜作本人から僕が聞いた話だ。

僕は両親とは折田喜作の事は話した事はなく、子供の時も、”マー、これを折田に持っていけ”、と指示されるだけで、単に折田のおじさんとして接していただけで、ましてや折田との馴れ初めなんて聞いたこともなかったのだ。

ムヤイのことも、その仲間には当時の宮古島を代表するヤマ小、野津、丸勝などの、いわば山小グループからもう錚々たる連中が目白押しで、それは陸軍少佐としての中山勇吉の人徳もあるので、城辺の長間の青年が入れるようなムヤイではなかった。

それを、しかも1番目に使わせてもらったのだ、などと話してくれたのは、他ならぬ本人の折田喜作だったのだ。



それなのに、そもそも何故かは知らないけど、やはり妬みやっかみだろうけど、僕との仲違いは、折田喜作が中山勇吉の悪口を延々とやりだしたことによる。

僕は黙って聞いていたが、何にも限度があるもので、小一時間も経ってから僕は沖縄方言で、”エー、アビランケー、トットローグワー、クルサリンドー、おいしゃべるな馬鹿野郎、殺されるぞ”、と反撃を開始したわけだ。

それはそうだ、急に今更父の悪口を並べ立て、しかも最後には、”お前の親父も浮気もしたと思うよ”、なんてこの馬鹿今更何が言いたいのだと腹も立ってくるのが当たり前で、大体それまで僕はサンエーを、あのちっぽけな店からでっかく伸ばして、すでに折田喜作の一生の夢、年商10億円を突破して破格の大進撃を加えているのに、この馬鹿は感謝どころか今度は俺の親父の悪口か、しかも挙句には知りもしないくせに浮気だってしたとは思うよなんて、お前の浮気の話は節子から聞いているぞ、この野郎というのがその時の怒り心頭の僕の思いだったわけだ。



その時も、もうブラジルへ行こうと思い準備を開始したのだった。

つまり1度ならず2度もブラジル行きは実現しなかったわけだ。

反面、今サンエーは大躍進で、そろそろ年商2000億円だ。

沖縄のコンピューター付きブルドーザーと言われた中山誠だったら、年商1兆円ぐらいはやっていたかも知れないぜ、なんて嘘ぶきもするが、サンエーに残っていたら今頃は金というか、売り上げ増に追いまくられて、もっともっとといつも次は何をするなり考えていたかもしれないな。

やはりそれも寂しいつまらない姿ではあるな。

いくら金財を成したとして個人が使う金なんて知れているわけで、大きな屋敷でも実際は持て余して掃除も大変で人手も金も全て維持だけでも大変なだけで、本当に個人が必要なものはそう多くは無いのだ。

だから300年位前のオーストラリアのアボリジニが、アメリカのインディアンと、メキシコから南米ペルーなどに至るマヤ族か、アフリカの未開の小人族から巨人族までの種族か、すべての文明に触れていない人々が1番幸せだったような気がする。

でももうそんな人間なんていないだろう。



さて僕はサンエーを辞めたことにも大満足だし、倒産と離婚で辛い目にもあったが、それからも立ち直り、あれはやむを得ない辛さだったと思い今はそれなりに満足している。

そして、そこに至った折田喜作のつまらない行動はやはり許せないと今でも思う。

しかし彼は思うがままに行動し、結果会社は常に正常に伸び続ける中で、社長としての権限を保つために上地晢誠を始めとする幹部社員を全員集めて、もっと利益が上がるように粗利を高めるよう指示を出したが、それを知った僕はすぐに全員を集めて、その社長の指示は実行しないようにときつく申し渡したのだ。

今のままで利益は充分上がっているので、急激な粗利政策なんて業界トップ企業として恥ずべき所行というのが僕の信念で、実際の業務は一切取り仕切っていた中山常務としては絶対に許されない、社長命令でも一切認めるわけにはいかなかったのだ。



このように、なかなか自分のイエスマンになってくれない僕に、よく折田喜作は猫なで声で、”ユービハ、ウツンカイド、マガイン”、”指は内側に曲がる”、つまり、”誠、お前は身内で唯一の俺の味方で、俺もお前のことが1番大事だよ”、などとよく話してくれたが、僕はいつも笑顔で、”そうです””、と答え、1度としてノーと言う態度は示していないものの、社長には満足のいく態度でもなかったようだ。

しかし、僕としてはそれ以上に折田喜作にゴマなどすれず、いつも淡々とことを進めており、サンエーの業績は充分満足のいくものだった。

それだけに、別に辞めた後のことなどほっとけばいいのにと、今でも残念の一言に尽きる。

今述べた事はみんな本音で喋ったわけで、逆にしゃべり足りないが今日はここまでにする。



2019年2月4日


人生波乱万丈!73歳脳出血後遺症と共に歩む中山誠氏の思い出話が面白い。
https://kamosan.ti-da.net/e10459057.html




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